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わたしは昨日(きのう)の午(ひる)少し過ぎ、あの夫婦に出会いました。その時風の吹いた拍子(ひょうし)に、牟子(むし)の垂絹(たれぎぬ)が上ったものですから、ちらりと女の顔が見えたのです。ちらりと、――見えたと思う瞬間には、もう見えなくなったのですが、一つにはそのためもあったのでしょう、わたしにはあの女の顔が、女菩薩(にょぼさつ)のように見えたのです。わたしはその咄嗟(とっさ)の間(あいだ)に、たとい男は殺しても、女は奪おうと決心しました。

何、男を殺すなぞは、あなた方の思っているように、大した事ではありません。どうせ女を奪(うば)うとなれば、必ず、男は殺されるのです。ただわたしは殺す時に、腰の太刀(たち)を使うのですが、あなた方は太刀は使わない、ただ権力で殺す、金で殺す、どうかするとおためごかしの言葉だけでも殺すでしょう。なるほど血は流れない、男は立派(りっぱ)に生きている、――しかしそれでも殺したのです。罪の深さを考えて見れば、あなた方が悪いか、わたしが悪いか、どちらが悪いかわかりません。(皮肉なる微笑)

しかし男を殺さずとも、女を奪う事が出来れば、別に不足はない訳です。いや、その時の心もちでは、出来るだけ男を殺さずに、女を奪おうと決心したのです。が、あの山科(やましな)の駅路では、とてもそんな事は出来ません。そこでわたしは山の中へ、あの夫婦をつれこむ工夫(くふう)をしました。

これも造作(ぞうさ)はありません。わたしはあの夫婦と途(みち)づれになると、向うの山には古塚(ふるづか)がある、この古塚を発(あば)いて見たら、鏡や太刀(たち)が沢山出た、わたしは誰も知らないように、山の陰の藪(やぶ)の中へ、そう云う物を埋(うず)めてある、もし望み手があるならば、どれでも安い値に売り渡したい、――と云う話をしたのです。男はいつかわたしの話に、だんだん心を動かし始めました。それから、――どうです。欲と云うものは恐しいではありませんか? それから半時(はんとき)もたたない内に、あの夫婦はわたしと一しょに、山路(やまみち)へ馬を向けていたのです。

わたしは藪(やぶ)の前へ来ると、宝はこの中に埋めてある、見に来てくれと云いました。男は欲に渇(かわ)いていますから、異存(いぞん)のある筈はありません。が、女は馬も下りずに、待っていると云うのです。またあの藪の茂っているのを見ては、そう云うのも無理はありますまい。わたしはこれも実を云えば、思う壺(つぼ)にはまったのですから、女一人を残したまま、男と藪の中へはいりました。

藪はしばらくの間(あいだ)は竹ばかりです。が、半町(はんちょう)ほど行った処に、やや開いた杉むらがある、――わたしの仕事を仕遂げるのには、これほど都合(つごう)の好(い)い場所はありません。わたしは藪を押し分けながら、宝は杉の下に埋めてあると、もっともらしい嘘をつきました。男はわたしにそう云われると、もう痩(や)せ杉が透いて見える方へ、一生懸命に進んで行きます。その内に竹が疎(まば)らになると、何本も杉が並んでいる、――わたしはそこへ来るが早いか、いきなり相手を組み伏せました。男も太刀を佩(は)いているだけに、力は相当にあったようですが、不意を打たれてはたまりません。たちまち一本の杉の根がたへ、括(くく)りつけられてしまいました。縄(なわ)ですか? 縄は盗人(ぬすびと)の有難さに、いつ塀を越えるかわかりませんから、ちゃんと腰につけていたのです。勿論声を出させないためにも、竹の落葉を頬張(ほおば)らせれば、ほかに面倒はありません。

わたしは男を片附けてしまうと、今度はまた女の所へ、男が急病を起したらしいから、見に来てくれと云いに行きました。これも図星(ずぼし)に当ったのは、申し上げるまでもありますまい。女は市女笠(いちめがさ)を脱いだまま、わたしに手をとられながら、藪の奥へはいって来ました。ところがそこへ来て見ると、男は杉の根に縛(しば)られている、――女はそれを一目見るなり、いつのまに懐(ふところ)から出していたか、きらりと小刀(さすが)を引き抜きました。わたしはまだ今までに、あのくらい気性の烈(はげ)しい女は、一人も見た事がありません。もしその時でも油断していたらば、一突きに脾腹(ひばら)を突かれたでしょう。いや、それは身を躱(かわ)したところが、無二無三(むにむざん)に斬り立てられる内には、どんな怪我(けが)も仕兼ねなかったのです。が、わたしも多襄丸(たじょうまる)ですから、どうにかこうにか太刀も抜かずに、とうとう小刀(さすが)を打ち落しました。いくら気の勝った女でも、得物がなければ仕方がありません。わたしはとうとう思い通り、男の命は取らずとも、女を手に入れる事は出来たのです。

男の命は取らずとも、――そうです。わたしはその上にも、男を殺すつもりはなかったのです。所が泣き伏した女を後(あと)に、藪の外へ逃げようとすると、女は突然わたしの腕へ、気違いのように縋(すが)りつきました。しかも切れ切れに叫ぶのを聞けば、あなたが死ぬか夫が死ぬか、どちらか一人死んでくれ、二人の男に恥(はじ)を見せるのは、死ぬよりもつらいと云うのです。いや、その内どちらにしろ、生き残った男につれ添いたい、――そうも喘(あえ)ぎ喘ぎ云うのです。わたしはその時猛然と、男を殺したい気になりました。(陰鬱なる興奮)

こんな事を申し上げると、きっとわたしはあなた方より残酷(ざんこく)な人間に見えるでしょう。しかしそれはあなた方が、あの女の顔を見ないからです。殊にその一瞬間の、燃えるような瞳(ひとみ)を見ないからです。わたしは女と眼を合せた時、たとい神鳴(かみなり)に打ち殺されても、この女を妻にしたいと思いました。妻にしたい、――わたしの念頭(ねんとう)にあったのは、ただこう云う一事だけです。これはあなた方の思うように、卑(いや)しい色欲ではありません。もしその時色欲のほかに、何も望みがなかったとすれば、わたしは女を蹴倒(けたお)しても、きっと逃げてしまったでしょう。男もそうすればわたしの太刀(たち)に、血を塗る事にはならなかったのです。が、薄暗い藪の中に、じっと女の顔を見た刹那(せつな)、わたしは男を殺さない限り、ここは去るまいと覚悟しました。

 しかし男を殺すにしても、卑怯(ひきょう)な殺し方はしたくありません。わたしは男の縄を解いた上、太刀打ちをしろと云いました。(杉の根がたに落ちていたのは、その時捨て忘れた縄なのです。)男は血相(けっそう)を変えたまま、太い太刀を引き抜きました。と思うと口も利(き)かずに、憤然とわたしへ飛びかかりました。――その太刀打ちがどうなったかは、申し上げるまでもありますまい。わたしの太刀は二十三合目(ごうめ)に、相手の胸を貫きました。二十三合目に、――どうかそれを忘れずに下さい。わたしは今でもこの事だけは、感心だと思っているのです。わたしと二十合斬り結んだものは、天下にあの男一人だけですから。(快活なる微笑)