「……あんなあ、学年でまだ決めとらんのは澄田だけやぞ」と、わざとらしくため息をついた後に伊藤先生は面倒くさそうに言う。
「すみません……」とだけ呟いて、でも続けるべき言葉が思い浮かばず、私は黙り込む。先生も黙っている。しばらく続く沈黙。
〈1~3の各項の該当するものに○印を記入してください〉
とかすれた文字が印字されたわら半紙を、私は仕方なくじっと見つめる。
1‥大学進学(A‥4年制大学 B‥短期大学)
2‥専門学校
3‥就職(A‥地域 B‥職種)
大学の項にはさらに国公立か私立の選択肢があり、それに続いてずらーっと学部の名前が並んでいる。医、歯、薬、理、工、農、水産、商、文、法、経、外語、教育。短大と専門学校の項も同様。音楽、芸術、幼児教育、栄養、服飾、コンピューター、医療・看護、調理、理容、観光、メディア、公務員……。文字を追うだけでくらくらする。そして就職の項には地域の選択肢があり、島内、鹿児島県内、九州、関西、関東、その他、と書かれている。
島内という文字と、関東という文字を私は交互に見つめる。──東京、と私は思う。行ったことはないし、行きたいと思ったこともそういえばない。私にとっての一九九九年現在の東京は、ギャング(!)がいるという渋谷、下着を売っているらしい女子高生、都内緊急二十四時! 的な犯罪の横行、フジテレビの建物についている用途不明巨大銀ボールに代表されるような大袈裟でばかでかいビル、そんなところだ。続いてブレザー姿の遠野くんがルーズソックスの色白茶髪の女子高生と手をつないで歩いている風景が思い浮かび、私は慌てて想像力をシャットダウンする。伊藤先生の大きなため息がふたたび聞こえてくる。
「のう、こう言っちゃあなんやけど、そねえに悩むようなことやなかろうが。お前の成績やと、専門か短大か就職。親御さんがええと言やあ九州の専門か短大、ダメだと言やあ鹿児島で就職。それでええやろが。だいたい澄田先生はなんて言うとるんか」
「いえ……」と私は小さく呟き、それからまた黙り込んでしまう。ぐるぐると感情が渦巻く。このヒトはなんでわざわざ私を放送で呼び出して、そのうえお姉ちゃんのことを持ち出すのだろう。なんであご髭なんか生やしているんだろう。なんでサンダル履きなんだろう。とにかく早く昼休みが終わって欲しいと、私は祈る。
「澄田あ、黙っとったら分からんやろうが」
「はい……あの、すみません」
「今晩お姉さんとよう話し合え。俺からも言うとくから」
なぜこのヒトは、私の嫌がることばかりを的確に行えるのだろうと、私は心底不思議に思う。
沖に出ようとパドルしている私の前方に大きめの波が見える。しぶきを上げる白波がまるでローラーのように近づいてきて、私はぶつかる直前でボードを思い切り押し込み水中にもぐり、波をスルーする。やっぱり今日は波が多い。もっとアウトに出ようと、私は何度もドルフィンを繰り返す。
──ここじゃない、と私は思う。
ここじゃダメだ。もっともっと外へ。必死に腕を回す。水はどっしりと重い。ここじゃない、ここじゃない──まるで呪文みたいに心の中で繰り返す。
そしてその言葉が遠野くんの姿にしっくりと重なることに、私はいきなり気づく。
時々こんな瞬間がある。波に向かっていると、まるで超能力者みたいに何かにはっきりと気づいてしまう時がある。放課後のコンビニの脇、誰もいない単車置き場、早朝の校舎裏、そういうところで誰かにメールを打っている遠野くんから、私には「ここじゃない」という叫びが聞こえる。そんなこと知ってるよ遠野くん。私だって同じなんだから。ここじゃないと思ってるのは遠野くんだけじゃないよ。遠野くん、遠野くん、遠野くん──そう繰り返しながら私は中途半端な体勢で波に持ち上げられ、それでも立ち上がろうとした瞬間に、一気に崩れた波と一緒に前のめりに海中に叩き込まれる。思わず海水を飲み込んでしまい、私は慌てて浮き上がってボードにしがみつき激しく咳き込む。鼻水と涙が滲んできて、まるで本当に泣いているみたいな気持ちになる。
学校へと戻る車の中で、お姉ちゃんは進路の話題を持ち出さなかった。
夜七時四十五分。私はコンビニのドリンク売り場の前にしゃがみ込んでいる。今日はひとりだ。単車置き場の前でしばらく待ってみたのだけれど、遠野くんは現れなかった。何もかもツイていない一日。私は結局またヨーグルッペを買ってしまう。コンビニの脇に停めたバイクに寄りかかり、甘い液体を一気に飲み込み、ヘルメットをかぶり、バイクにまたがる。
まだほんのりと明るさの残る西の地平線を横目で眺めながら、私は高台の脇道をバイクを走らせている。左手には眼下に町が一望できて、視界の隅の林越しには海岸線も見える。右手は畑を挟んでちょっとした丘になっている。わりと平坦なこの島の中ではこのあたりは眺めの良い場所で、遠野くんの帰り道でもある。ゆっくり走っていたら、もしかして後ろから追いついてきたりして。それともやっぱり先に行っちゃったのかしら。バイクのエンジンががるんと咳き込み、ほんのちょっとの間だけエンジンが止まり、何事もなかったかのように元に戻る。このカブももうお婆ちゃんだよなあ。「カブ大丈夫ー?」と呟いたところで、前方の道路脇に停められたバイクが目に入った。彼のバイクだ! となぜか私ははじかれるように確信し、並べてバイクを停めた。
ほとんど無意識のうちに、私は高台の斜面を登り始めていた。柔らかな夏草を踏みしめる感触。やばい。何やってるんだろう私。私ははっと冷静になる。近くで見たバイクはやっぱり遠野くんのだったけれど、私はこんなふうに彼のところに押しかけて一体何をしたいのだろうか。こんなふうに会わない方がいいに決まっているのだ。きっと私自身のために。それでも足は止まらず、大きな草の段差を踏み越えて拓けた視界の向こうに、彼はいた。星空を背に高台の頂上に座り込んで、やっぱり携帯メールを打ちながら。
まるで私の心を揺らすためのように風がざーっと吹いてきて、私の髪と服を揺らし、あたりは草のさざめく音に満ちた。その音に呼応するように私の胸はどくどくと大きな音を立て始めて、私はそれを聞きたくなくてわざと大きな音を立てて斜面を登る。