「おーい、遠野くん!」
「あれ、澄田? どうしたの、よく分かったね」すこし驚いたように、遠野くんが私に向かって大きな声で喋ってくれる。
「へへへ……。遠野くんの単車があったから、来ちゃった! いい?」と言いながら、私は早足で彼に向かう。こんなのはなんでもないことなのよ、と自分に言い聞かせながら。
「うん、そうか。嬉しいよ。今日は単車置き場で会えなかったからさあ」
「あたしも!」とできるだけ元気に私は言って、スポーツバッグを肩から降ろしながら彼の隣に座り込む。嬉しい? ホントなの遠野くん? 心臓がなんだかずきずきする。彼のいる場所に来た時は、いつもだ。ここじゃない、という言葉が一瞬だけ心をよぎる。西の地平線はいつのまにかすっかり闇に沈んでいる。
次第に強くなる風が、眼下に遠く広がる町のまばらな電灯をちらちらと瞬かせている。小さく見える学校にはまだいくつか明かりがついている。国道沿いの黄色い点滅信号の下を、車が一台走っている。町の体育施設にある巨大な白い風車が勢いよく回っている。雲の数は多く流れは速く、切れ間には天の川と夏の大三角形が見える。ベガ、アルタイル、デネブ。風は耳元で巻いてヒュウゥゥという音をたて、草と木とビニールハウスが揺れるザアッという音と盛大な虫の音とが混じり合っている。強く吹く風は私をだんだんと落ち着かせる。あたりは強い緑の匂いに満ちている。
そんな風景を眺めながら、私と遠野くんは隣り合って座っている。鼓動はもうずいぶん静まっていて、彼の肩の高さを間近で感じていられることが、私は素直に嬉しい。
「ねえ、遠野くんは受験?」
「うん、東京の大学受ける」
「東京……。そうか、そうだと思ったんだ」
「どうして?」
「遠くに行きたそうだもの、なんとなく」そう言いながら、あまり動揺していない自分に驚く。遠野くんの口から現実に東京行きを聞いたりなんかしたら目の前が真っ暗になるかと思っていたのに。すこしの沈黙の後、優しい声で彼が言う。
「……そうか。澄田は?」
「え、あたし? あたし、明日のことも分からないのよね」呆れるよね遠野くん、と思いながら私は正直に話せてしまう。
「たぶん、誰だってそうだよ」
「え、うそ!? 遠野くんも?」
「もちろん」
「ぜんぜん迷いなんてないみたいに見える!」
「まさか」静かに笑いながら彼は続ける。「迷ってばかりなんだ、俺。できることをなんとかやってるだけ。余裕ないんだ」
どきどきする。すぐ隣にいる男の子がこんなことを考えているということ、それを私だけに言ってくれているということが、むしょうに嬉しくてどきどきする。
「……そっか。そうなんだ」
そう言って、私はちらっと彼の顔に目をやる。まっすぐに遠くの灯りを見つめている。遠野くんがまるで、無力で幼い子どもみたいに見える。私はこの人のことが好きなんだと、今さらながら強く思う。
──そうだ。いちばん大切ではっきりしていることは、これだ。私が彼を好きだということ。だから私は、彼の言葉からいろんな力をもらえてしまう。彼がこの世界にいてくれたことを、どこかの誰かに感謝したくてたまらなくなる。たとえば彼の両親、たとえば神さま。そして私はスポーツバッグから進路調査用紙を取り出して、折り始めた。いつのまにか風はすっかり凪いでいて、草のざわめきも虫の音もずいぶん静かになっている。
「……それ、飛行機?」
「うん!」
できあがった紙飛行機を、私は町に向かって飛ばした。それは驚くくらい遠くまでまっすぐに飛んでいき、途中で急な風に吹き上げられ、空のずっと高いところで闇に紛れて見えなくなった。折り重なった雲の合間から、白い天の川がくっきりとのぞいていた。
あんたこんな時間まで何やってたのよ、風邪ひかないように早くお風呂入っちゃいなさいとお姉ちゃんにせき立てられ、私はざぶんと湯船につかった。お湯の中で、なんとなく二の腕をさする。私の二の腕は筋肉でかちかちに硬い。それに標準よりちょっと──だいぶ太い気がする。そして私は、ふわりとしたマシュマロのような柔らかい二の腕に憧れている。でもこんなふうに自分のコンプレックスを目の当たりにしても、今の私はぜんぜん平気だ。体と同じくらい気持ちもぽかぽかしている。高台での会話が、遠野くんの落ち着いた声が、別れ際に彼が言ってくれた言葉が、まだ耳の奥に残っている気がする。その響きを思い出すとぞくぞくとした気持ち良さが全身に広がる。顔がにやけてくるのが自分でも分かる。なんかアブないなあ私はと思いつつ、思わず「遠野くん」、と小さく口に出してしまう。その名前は浴室に甘く反響し、やがて湯気に溶ける。なんか盛りだくさんの一日だったなーと、幸せに思い返す。
私たちはあの後の帰り道、巨大なトレーラーがゆっくりと走っている光景に遭遇した。タイヤの大きさだけで私の背丈くらいある巨大な牽引車がプールほども長さのある白い箱を引っ張っていて、その箱には大きな文字で誇らしげに「NASDA/宇宙開発事業団」と書いてあった。そんなトレーラーが二台もあり、その前後を何台かの乗用車が挟み込んでいて、赤い誘導灯を持った人たちが一緒に歩いている。ロケットの運搬だ。話に聞いていただけで実際に見るのは初めてだったけれど、確かどこかの港まで船で運ばれてきたロケットを、こんなふうに慎重にゆっくりと、一晩かけて島の南端にある打ち上げ場まで運ぶのだ。
「時速五キロなんだって」と、以前どこかで聞いたトレーラーの運搬スピードのことを私は言い、遠野くんも「ああ」とかそんなふうにちょっと呆然と答え、私たちはしばらくの間その運搬風景に見とれた。これは結構レアな光景なはずで、それをまさか遠野くんと一緒に見ることができるとは思ってもいなかった。
それからしばらくして雨が降り始めた。この季節にはよくある、バケツをひっくり返したような突然の土砂降りだった。私たちは慌ててバイクを走らせて家路を急いだ。私のヘッドライトに照らされた、雨にぐっしょりと濡れている遠野くんの背中は、以前よりすこしだけ近くに感じられた。私の家は彼の帰り道の途中にあり、一緒になった時はいつもそうするように、私たちは私の家の門の前で別れた。
「澄田」と別れ際にヘルメットのバイザーを上げながら彼は言った。雨はますます勢いを増していて、私の家からかすかに届く黄色い光がほんのりと彼の濡れた体を照らしていた。貼りついたシャツ越しに見える彼の体の線にドキドキする。私の体も同じように見えているのだろうということに、ドキドキする。