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「今日はごめんな、ずぶ濡れにさせちゃったね」

「そんなそんなそんな! 遠野くんのせいじゃないよ、あたしが勝手に行ったんだもん」

「でも話せて良かった。じゃあまた明日な。風邪ひかないように気をつけて。おやすみ」

「うん。おやすみ遠野くん」

 おやすみ遠野くん、と湯船の中で私は小さく呟く。

 お風呂を出た後の夕食はシチューとモハミの唐揚げとカンパチのお刺身で、おいしくて私は三杯目のご飯をお母さんにお願いしてしまう。

「あんた本当によく食べるわね」と、ご飯をよそったお茶碗を私に渡しながらお母さんが言う。

「ご飯三杯も食べる女子高生なんて他にいないわよ」と、呆れたようにお姉ちゃん。

「だってお腹すくんだもん……。あ、ねえお姉ちゃん」モハミを口に入れながら私は言う。唐揚げにはあんがかかっている。もぐもぐ。おいしい。

「あのね、今日さ、伊藤先生になんか言われたでしょ」

「ああ、うん、何か言ってたわね」

「ごめんね、お姉ちゃん」

「謝ることないじゃない。ゆっくり決めればいいのよ」

「なに花苗、あんた何か怒られるようなことしたの」と、お姉ちゃんの湯飲みにお茶を足しながらお母さんが訊く。

「たいしたことじゃないのよ。あの先生ちょっと神経質なの」となんでもないことのようにお姉ちゃんが答え、私はこの人がお姉ちゃんで良かったと、あらためて思った。

 その晩、私は夢を見た。

 カブを拾った時の夢だった。カブというのはホンダのバイクのことではなく、私の家で飼っている柴犬の名前だ。小六の時に私が海岸で拾った。お姉ちゃんのカブ(バイクの方)が羨ましかった当時の私は、拾った犬にカブという名前を付けたのだ。

 しかし夢の中での私は子どもではなく、今の十七歳の私だった。私は仔犬のカブを抱き上げて、不思議な明るさに満ちている砂浜を歩いている。空を見上げるとしかしそこに太陽はなく、眩しいくらいの満天の星空だった。赤や緑や黄色、色とりどりの恒星が瞬き、全天を巨大な柱のような眩しい銀河が貫いている。こんな場所があったかしらと私は思う。ふと、ずっと遠くを誰かが歩いているのに気づく。その人影を私はよく知っているような気がする。

 これからの私にとって、あの人はとても大切な存在になるに違いないと、いつのまにか子どもの姿になっている私は思う。

 かつての私にとって、あの人はとても大切な存在だったと、いつのまにかお姉ちゃんと同じ年になっている私は思う。

 目が覚めた時、私は夢の内容を忘れていた。

3

「お姉ちゃん、車の免許とったのいつ?」

「大学二年だったから、十九の時かな。福岡にいた時にね」

 車の運転をしている時のお姉ちゃんは、我が姉ながら色っぽいなーと、私は思う。ハンドルに添えられた細い指先、朝日をきらきらと反射する長い黒髪、バックミラーをちらっと見る仕草や、ギアを変える時の手つき。開け放した窓から吹き込む風に乗って、姉の髪の匂いがかすかに届く。同じシャンプーを使っているはずなのに、私よりお姉ちゃんの方が良い匂いをさせているような気がする。私はなんとなく制服のスカートの裾をひっぱる。

「ねえお姉ちゃん」と、私は運転席の横顔を見ながら言う。この人まつげ長いよなー。「何年か前さ、うちに男の人連れてきたことがあったじゃない。キバヤシさんだっけ?」

「ああ、小林くんね」

「あの人どうなったの? 付きあってたんだよね」

「何よ急に」とすこし驚いたように姉は答える。「別れたわよ、ずっと前に」

「その人と結婚するつもりだったの? そのコバヤシさんとさ」

「そう思ってた時期もあったよ。途中でやめたけどね」と懐かしそうに、笑いながら言う。

「ふーん……」

 どうしてやめたの? という質問を飲み込んで、私は別のことを訊く。

「悲しかった?」

「そりゃあね、何年か付きあっていた人だから。一緒に住んでたこともあったし」

 左折して海岸に続く細い道へと入ると、朝日がまっすぐに差し込んでくる。雲一つない真っ青な空。お姉ちゃんは目を細めてサンバイザーを降ろす。そんな動作まで、私にはどこか色っぽく見える。

「でも今思えば、お互いにそれほど結婚願望があったわけでもなかったのよ。そうすると付きあってても気持ちの行き場がないの。行き場っていうか、共通の目的地みたいなね」

「うん」よく分からないまま私はうなずく。

「ひとりで行きたい場所と、ふたりで行きたい場所は別なのね。でもあの頃はそれを一致させなきゃって必死だったような気がするな」

「うん……」

 行きたい場所──と私は心の中で繰り返す。なんとなく道端に目をやると、野生のテッポウユリとマリーゴールドがたっぷりと咲き誇っている。眩しい白と黄色、私のボディスーツと同じ色だ。キレイだな、花も偉いよなーと私は思う。

「どうしたのよ急に」と、お姉ちゃんが私の方を見て訊く。

「うーん……どうしたっていうか、別になんでもないんだけどさ」

 そう言って、ずっと訊きたかったことを私は訊いた。

「ねえ、お姉ちゃんさ、高校の時カレシいた?」

 姉はおかしそうに笑いながら、

「いなかったわよ。あんたと同じ」と答える。「花苗、高校生の時の私にそっくりよ」

 遠野くんと一緒に帰ったあの雨の日から二週間が経ち、その間に台風が一つ島を通り過ぎた。サトウキビを揺らす風がかすかに冷気を孕み、空がほんのすこし高くなり、雲の輪郭が優しくなって、カブに乗る同級生の何人かが薄いジャンパーをはおるようになった。この二週間一度も遠野くんと一緒に帰ることは叶わず、私は相変わらず波に乗れていない。それでも最近は以前にも増して、サーフィンをすることがとても楽しい。

「ねえ、お姉ちゃん」

 サーフボードに滑り止めのワックスを塗りながら、私は運転席で本を読んでいる姉に話しかけた。車はいつもの海岸そばの駐車場に停められていて、私はボディスーツに着替えている。午前六時三十分、学校に行くまでのこれから一時間、海に入っていられる。

「んー?」

「進路のことだけどさあ」

「うん」

 私は扉を開け放したステップワゴンのトランクに腰掛けていて、お姉ちゃんとは背中向きで話す格好になっている。海のずっと沖の方に、大きな軍艦のような灰色の船が停泊しているのが見える。NASDAの船だ。