「今もまだどうしたらいいのかは分からないんだけど。でもいいの、あたしとりあえず決めたの」ワックスを塗り終わり、石鹸のようなその固まりを脇に置きながら、姉の言葉を待たずに私は続ける。
「一つずつできることからやるの。行ってくる!」
そう言って、私はボードを抱えて晴々とした気持ちで海へと駆け出す。──できることをなんとかやってるだけ、というあの日の遠野くんの言葉を思い出しながら。そうしていくしかないんだと、それでいいのだと、私ははっきりと思う。
空も海もおんなじ青で、私はまるでなんにもない空間に浮かんでいるような気持ちになる。もっと沖に出るためにパドリングとドルフィンスルーを繰り返しているうちに、だんだんと心と体の境界、体と海との境界がぼんやりとしてくる。沖に向かってパドルして、やってくる波の形と距離をほとんど無意識のうちに計り、無理だと判断したらボードごと体を水中に押し込んで波をスルーする。いけそうな波だと判断したらターンして波がやってくるのを待つ。やがてボードが波に持ち上げられる浮力を感じる。これから起こることに私はぞくぞくする。波のフェイスをボードが滑りはじめて、私は上半身を持ち上げ、両足でボードを踏みしめ、重心を上げる。立ち上がろうとする。視界がぐっと持ち上がり、世界がその秘密の輝きを一瞬だけ覗かせる。
そして次の瞬間、私は決まって波に飲み込まれる。
でもこの巨大な世界は私を拒否しているわけではないことを、私はもう知っている。離れて見れば──たとえばお姉ちゃんから見れば、私はこの輝く海に含まれている。だからふたたび、沖に向かってパドルしていく。何度もなんども繰り返す。そのうちに何も考えられなくなる。
そしてその朝、私は波の上に立った。ウソみたいに唐突に、文句のつけようもなく完璧に。
たった十七年でもそれを人生と言って良いのなら、私の人生はこの瞬間のためにあったんだ、と思った。
この曲は知っている。モーツァルトのセレナードだ。中一の音楽会でクラス合奏したことがあって、私は鍵盤ハーモニカ担当だった。ホースみたいなのをくわえて息を吐きながら弾く楽器で、自分の力で音を出しているという感覚が好きだった。あの頃、私の世界にはまだ遠野くんはいなかった。サーフィンもやっていなかったし、今思えばシンプルな世界だったよなーと思う。
セレナードは小さな夜の曲と書く。小さ夜よ曲きよく。小さな夜ってなんだろう、と私は思う。でも遠野くんと一緒の帰り道は、なんとなく小さな夜ってかんじがする。まるで私たちのために今日この曲がかかったみたい。なんかテンション上がる。遠野くん。今日こそは一緒に帰らなくちゃ。放課後は海に行かないで待ってようかなー。今日は六限目までしかないし、試験前だから部活動も短いだろうし。
「……なえ」
ん?
「花苗ってば、ねえ」
サキちゃんが私に話しかけている。十二時五十五分。今は昼休みで、教室のスピーカーからは小さな音でクラシック音楽が流れていて、私はサキちゃんとユッコと三人でいつものようにお弁当を広げている。
「あ、ごめん。なんか言った?」
「ぼーっとするのはいいけどさ、あんたゴハン口に入れたまま動き止まってたわよ」とサキちゃんが言う。
「しかもなんかにこにこしてたよ」とユッコ。
私は慌てて、口の中に入ったゆで卵を噛みはじめる。もぐもぐ。おいしい。ごくん。
「ごめんごめん。なんの話?」
「佐々木さんがまた男から告白されたって話だったんだけど」
「あー。うん、あの人キレイだもんねえ」と言って、私はアスパラのベーコン巻きを口に入れる。お母さんのお弁当は本当においしい。
「ていうかさ、花苗、なんか今日ずっと嬉しそうよね」とサキちゃん。
「うん。なんかちょっとコワイよ。遠野くんが見たらひくよ」とユッコ。
今日はふたりの軽口もぜんぜん気にならない。そお? と私は受け流す。
「明らかにヘンだよねこの子」
「うん……。遠野くんとなんかあったの?」
私は余裕の返答として、「ふふーん」と意味ありげににやついた。正確にはこれからなんかあるんだけどね。
「えぇ、ウソ!」
ふたりは驚いて同時にハモる。そんなに驚くか。
私だっていつまでも片想いのままじゃないのだ。波に乗れた今日、私はとうとう、彼に好きだと伝えるんだ。
そう。波に乗れた今日言えなければ、この先も、きっと、ずっと言えない。
午後四時四十分。私は渡り廊下の途中にある女子トイレで鏡に向かっている。六限目が三時半に終わってから、私は海には行かずにずっと図書館で過ごした。勉強なんかは当然できるはずもなく、頬杖をついて窓の外の景色を眺めていた。トイレの中の空気はしんとしている。いつのまにか髪が伸びたな、と鏡を見ながら思う。後ろ髪がすこし肩にかかっている。中学の時まではもっと長かったのだけれど、高校に入ってサーフィンを始めたことをきっかけにばっさりと髪を切った。お姉ちゃんが先生をやっている高校に入ったからという理由も、きっとあった。髪が長くて美人なお姉ちゃんと比べられるのが恥ずかしかった。でももうこのまま伸ばそうかなと、なんとなく思う。
鏡に映った、日焼けして、頬を赤く上気させた私の顔。遠野くんの目に私はどう映っているのだろう。瞳の大きさ、眉の形、鼻の高さ、唇のつや。背の高さや髪質や胸の大きさ。おなじみのかすかな失望を感じながら、それでも私は自分のパーツ一つひとつをチェックするようにじっと見てみる。歯並びでも爪の形でも、なんでもいいから──と私は願う。私のどこかが彼の好みでありますように、と。
午後五時三十分。単車置き場の奥、いつもの校舎裏に私は立っている。日差しはだいぶ西に傾いてきていて、校舎が落とす長い影が地面を光と影にぱっきりと二分している。私がいる場所はその境界、ぎりぎり影の中だ。空を見上げるとまだ明るく青いけれど、その青は昼間よりもすこしだけ色褪せて見える。さっきまで樹木に満ちていたクマゼミの声は静まり、今は足元の草むらからたくさんの虫の音が湧きあがっている。そしてその音に負けないくらい大きく、私の鼓動はどきんどきん鳴り続けている。体中をばたばたと血液が駆けめぐっているのが分かる。すこしでも気持ちを落ち着かせようと深呼吸するのだけれど、あまりにも緊張しすぎていて、私は時々息を吐くのを忘れてしまう。はっと気づいて大きく息を吐いて、そんな呼吸の不規則さに、鼓動は余計に激しくなる。──今日、言えなければ。今日、言わなければ。ほとんど無意識のうちに何度もなんども、壁から単車置き場を覗きこんでしまう。