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 だから遠野くんから「澄田」と声をかけられた時も、感じたのは嬉しさよりも戸惑いと焦りだった。思わずきゃっと声が出そうになったのを必死に飲み込んだ。

「今帰り?」壁から覗きこんでいる私に気づいた遠野くんが、いつもの落ち着いた足取りで単車置き場から近づいてくる。私は悪事が見つかったような気持ちで単車置き場へと足を踏み出しながら、「うん」と返事をする。──そうか。じゃ、一緒に帰ろうよ。いつもの優しい声で、彼が言う。

 午後六時。コンビニのドリンク売り場に並んで立っている私たちを、西向きの窓からまっすぐに差し込んだ夕日が照らしている。いつもは暗くなってから来るコンビニだから、まるで違う店にいるような不安な気持ちになる。夕日の熱さを左頬に感じながら、小夜曲じゃなかったな、と私は思う。外はまだ明るい。私の今日の買い物は決まっている。遠野くんと同じデーリィコーヒー。迷いなくその紙パックを手に取った私に、遠野くんは驚いたように言う。あれ、澄田、今日はもう決まり? 私は彼の方を見ずに、うん、と返事をする。好きって言わなきゃ。家に着いてしまう前に。ずっと心臓が跳ねている。店内に流れているポップスが私の鼓動を消してくれていますようにと、願う。

 コンビニの外も、世界は夕日によって光と影に塗り分けられていた。自動ドアから出たところは光の中。コンビニの角を曲がって、単車が置いてある小さな駐車場は影の中だ。紙パックを片手に影の世界に入っていく遠野くんの背中を私は見ている。白いシャツに包まれた、私より広い背中。それを見ているだけで心がじんじんと痛む。強く強く焦がれる。歩いている彼までの四十センチくらいの距離が、ふいに五センチくらい余分に離れる。突然激しい寂しさが湧きあがる。待って。と思い、とっさに手を伸ばしてシャツの裾をつかんだ。しまった。でも、今、好きだと言うんだ。

 彼が立ち止まる。たっぷりと時間をおいて、ゆっくりと私を振り返る。──ここじゃない、という彼の言葉が聞こえたような気がして、私はぞくっとする。

「──どうしたの?」

 私の中のずっと深い場所が、もう一度、ぞくっと震えた。ただただ静かで、優しくて、冷たい声。思わず彼の顔をじっと見つめてしまう。にこりともしていない顔。ものすごく強い意志に満ちた、静かな目。

 結局、何も、言えるわけがなかった。

 何も言うなという、強い拒絶だった。

*  *  *

 キチキチキチ……というヒグラシの鳴き声が島中の大気に反響している。ずっと遠くの林からは、夜を迎える準備をしている鳥たちの甲高い声が小さく聞こえる。太陽はまだぎりぎり沈んでいなくて、帰り道の私たちを複雑な紫色に染めている。

 私と遠野くんは、サトウキビとカライモ畑に挟まれた細い道を歩いている。さっきから、私たちはずっと無言だ。規則的なふたりぶんの硬い靴音。私と彼との間は一歩半ぶんくらい離れていて、離れないように近づきすぎないように私は必死だ。彼の歩幅が広い。もしかして怒っているのかもしれないと思ってちらりと顔を見たけれど、いつもの表情でただ空を見ているように見える。私は顔を伏せ、自分の足がアスファルトに落とす影を見つめる。コンビニに置いてきたバイクのことをちらっと思い出す。捨ててきたわけじゃないのに、自分が残酷なことをしてしまったような後悔に似た気持ちがある。

 好きという言葉を飲み込んだ後、まるで私の気持ちに連動するみたいに、カブのエンジンがかからなくなってしまった。スターターを押してもキックでかけようとしても、うんともすんとも言わない。コンビニの駐車場でバイクにまたがったまま焦る私に遠野くんはやっぱり優しく、私はさっきの彼の冷たい顔がまるでウソみたいに思えて、なんだか混乱してしまう。

「たぶん、スパークプラグの寿命なんじゃないのかな」と、私のカブを一通り触った後に遠野くんは言った。「これお下がり?」

「うん、お姉ちゃんの」

「加速で息継ぎしてなかった?」

「してたかも……」そういえばここ最近、時々エンジンがかかりにくいことがあった。

「今日はここに置かせてもらって、後で家の人に取りに来てもらいなよ。今日は歩こう」

「えぇ! あたしひとりで歩くよ! 遠野くんは先帰って」私は焦って言う。迷惑なんてかけたくない。それなのに、彼は優しく言う。

「ここまでくれば近いから。それにちょっと、歩きたいんだ」

 私はわけも分からず泣きたい気持ちになる。ベンチに二つ並んだデーリィコーヒーの紙パックを見る。彼の拒絶と感じたのは私の勘違いだったんじゃないかと一瞬思う。でも。

 勘違いなわけない。

 なぜ私たちはずっと黙って歩き続けているのだろう。一緒に帰ろうと言ってくれるのはいつも遠野くんからなのに。なぜあなたは何も言わないんだろう。なぜあなたはいつも優しいのだろう。なぜあなたが私の前に現れたのだろう。なぜ私はこんなにもあなたが好きなのだろう。なぜ。なぜ。

 夕日にキラキラしているアスファルト、そこを必死に歩く私の足元がだんだんと滲んでくる。──お願い。遠野くん、お願い。もう私は我慢することができない。だめ。涙が両目からこぼれ落ちる。両手でぬぐってもぬぐっても涙が溢れる。彼に気づかれる前に泣きやまなくちゃ。私は必死に嗚咽を抑える。でも、きっと彼は気づく。そして優しい言葉をかける。ほら。

「……澄田! どうしたの!?」

 ごめん。きっとあなたは悪くないのに。私はなんとか言葉をつなごうとする。

「ごめん……なんでもないの。ごめんね……」

 立ち止まって、顔を伏せて、私は泣き続けてしまう。もう止めることができない。澄田、という遠野くんの悲しげな呟きが聞こえる。今まででいちばん、感情のこもった彼の言葉。それが悲しい響きだということが、私にはとても悲しい。ヒグラシの声はさっきよりずっと大きく大気を満たしている。私の心が叫んでいる。遠野くん。遠野くん。お願いだから、どうか。もう。

 ──優しくしないで。

 その瞬間、ヒグラシの鳴き声がまるで潮が引くみたいに、すっと止んだ。島中が静寂に包まれたように、私は感じた。

 そして次の瞬間、轟音に大気が震えた。驚いて顔を上げた私の滲んだ視界に、遠くの丘から持ち上がる火球が見えた。