それは打ち上げられたロケットだった。噴射口からの光が眩しく視界を覆い、それは上昇を始めた。島全体の空気を震わせながら、ロケットの炎は夕暮れの雲を太陽よりも明るく光らせ、まっすぐに昇っていく。その光に続いて白い煙の塔がどこまでも立ち上がっていく。巨大な煙の塔に夕日が遮られ、空が光と影とに大きく塗り分けられてゆく。どこまでもどこまでも光と塔は伸びていく。それは遙か上空までまんべんなく大気の粒子を振動させ、まるで切り裂かれた空の悲鳴のように、残響が細く長くたなびく。
ロケットが雲間に消えて見えなくなるまで、たぶん、数十秒ほどの出来事だったのだと思う。
でも私と遠野くんは一言も発せずに、そびえ立った煙の巨塔がすっかり風に溶けてしまうまで、いつまでも立ちつくしてずっと空を見つめていた。やがてゆっくりと鳥と虫と風の音が戻ってきて、気がつけば夕日は地平線の向こうに沈んでいる。空の青は上の方からだんだんと濃さを増し、星がすこしずつ瞬きだして、肌の感じる温度がすこしだけ下がる。そして私は突然に、はっきりと気づく。
私たちは同じ空を見ながら、別々のものを見ているということに。遠野くんは私を見てなんかいないんだということに。
遠野くんは優しいけれど。とても優くていつも隣を歩いてくれているけれど、遠野くんはいつも私のずっと向こう、もっとずっと遠くの何かを見ている。私が遠野くんに望むことはきっと叶わない。まるで超能力者みたいに今ははっきりと分かる。私たちはこの先もずっと一緒にいることはできないと、はっきりと分かる。
帰り道の夜空にはまんまるいお月さまがかかっていて、風に流れる雲をまるで昼間のようにくっきりと、青白く照らし出していた。アスファルトには私と彼のふたりぶんの影が黒々と落ちている。見上げると電線が満月の真ん中を横切っていて、なんだかまるで今日という日のようだ、と私は思う。波に乗れる前の私と、乗れた後の私。遠野くんの心を知る前の私と、知った後の私。昨日と明日では、私の世界はもう決して同じではない。私は明日から、今までとは別の世界で生きていく。それでも。
それでも、と私は思う。電気を消した部屋の中で布団にくるまりながら。暗闇の中で、部屋に差し込んだ水たまりみたいな月明かりを見つめながら。ふたたび溢れはじめた涙が、月の光をじんわりと滲ませはじめる。涙は次から次へと湧きつづけて、私は声を立てて泣きはじめる。涙も鼻水も盛大にたらして、もう我慢なんかせずに、思い切り大きな声を上げて。
それでも。
それでも、明日も明後日もその先も、私は遠野くんが好き。やっぱりどうしようもなく、遠野くんのことが好き。遠野くん、遠野くん。私はあなたが好き。
遠野くんのことだけを思いながら、泣きながら、私は眠った。
第三話「秒速5センチメートル」
1
その晩、彼女は夢を見た。
ずっと昔の夢。彼女も彼もまだ子どもだった。音もなく雪が降る静かな夜で、そこはいちめんの雪に覆われた広い田園で、人家の灯りはずっと遠くにまばらに見えるだけで、降り積もる新雪にはふたりの歩いてきた足跡しかなかった。
そこに一本だけ、大きな桜の樹が立っていた。それは周囲の闇よりもなお濃く暗く、空間に唐突に開いた深い穴のように見えた。ふたりはその前に立ちすくんだ。どこまでも暗い幹と枝と、その間からゆっくりと落ちてくる無数の雪を見つめながら、彼女はその先の人生を想っていた。
隣にいる、今まで彼女を支えてくれた大好きな男の子が遠くに行ってしまうことを、彼女はもう十分に覚悟し納得もしていた。数週間前に彼からの手紙で転校について聞かされた時から、それが意味することを繰り返し繰り返し、彼女は考えてきた。それでも。
それでも、隣に立っている彼の肩の高さを、その優しい気配を失ってしまうことを考えると、底知れぬ闇を覗き込んでしまった時のような不安と寂しさが、彼女を包んだ。それはもうずっと昔に過ぎ去ってしまった感情だったはずなのにと、夢を見ている彼女は思う。でもまるでできたての気持ちのように鮮やかに、それはここにある。──だから、この雪が桜であってくれればいいのにと、彼女は思った。
今が春であってくれればいいのに。私たちはふたりで無事にあの冬を越え春を迎えて、同じ町に住んでいて、いつもの帰り道にこうやって桜を見ている。今がそういう時間であってくれればいいのに、と。
ある夜、彼は部屋で本を読んでいた。
日付が変わる頃に床に就いたのだが上手く眠ることができず、諦めて床に積まれた本から適当な一冊を引っぱり出し、缶ビールを飲みながらの読書だった。
寒くて、静かな夜だった。BGM代わりにテレビをつけて、深夜放送の洋画を小さなボリュームで流した。半分開いたカーテンの向こうには、数え切れない街の灯りと降り続く雪が見えた。その日の昼過ぎから降り始めた雪は、時折雨に変わり、また雪に変わり、しかし日が沈んでからは雪は次第に粒の大きさを増し、そのうちに本格的な降雪となっていた。
読書に集中できないような気がして、彼はテレビを消した。すると今度は静かすぎた。終電は終わっていたし、車の音も風の音も聞こえず、壁を隔てた外界に降る雪の気配を、彼ははっきりと感じることができた。
ふいに、何かあたたかなものから守られているという、どこか懐かしい感覚が蘇った。そう感じた理由を考えているうちに、ずっと昔に見た冬の桜の樹のことを思い出した。
……あれは何年前だろう? 中学一年の終わりだったから、もう十五年も前だ。
眠気はいっこうに訪れる気配はなく、彼はため息をついて本を閉じ、缶の底に残ったビールをひとくちで飲んだ。
三週間前に五年近く勤めた会社を辞め、次の就職先のあてもなく、毎日を何をするでもなくぼんやりと過ごしている。それなのに、心はここ数年になく穏やかに凪いでいた。
……いったい俺はどうしてしまったんだろう、と彼は胸のうちで呟きながら炬燵から立ち上がり、壁に掛けてあるコートをはおり(その横にはまだスーツが掛けたままになっている)、玄関で靴を履きビニール傘を持って外に出た。傘にあたる雪のひそやかな音を聞きながら、近所のコンビニエンスストアまで五分ほどゆっくり歩いた。