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 牛乳や総菜を入れたカゴを足元に置き、マガジンラックの前ですこし迷ってから、彼は月刊のサイエンス誌を手に取ってぱらぱらと眺めた。高校生の頃は熱心に読んでいた雑誌で、手に取るのは数年ぶりだった。後退し続ける南極の氷の記事があり、銀河間の重力干渉の記事があり、新しい素粒子が発見されたという記事があり、ナノ粒子と自然環境との相互作用の記事があった。世界が今でも発見と冒険に満ちていることに軽い驚きを覚えながら、記事に目を滑らせる。

 ふと、ずっと昔にもこんな気持ちになったことがあるという既視感にみまわれ、ひと呼吸のち、ああ、音楽だ、と気づいた。

 店内の有線放送から、かつて──たぶん自分がまだ中学生だった頃に──繰り返し耳にしたヒットソングが流れていた。懐かしいメロディを聴きながらサイエンス誌に書かれた世界の断片を目で追ううちに、ずっと昔に忘れたと思っていた様々な感情が胸を撫であげるように湧きたち、それが通り過ぎた後もしばらくの間、心の表面はゆるやかに波立っていた。

 店を出た後も、胸の内側がまだすこし熱かった。そこが心のありかだということを、とても久しぶりに感じているような気がする。

 切れ間なく空から降りてくる雪を見ながら、それがやがて桜に変わる季節のことを、彼は想った。

2

 遠野貴たか樹きは種子島の高校を卒業した後、大学進学のために上京した。通学に便利なように、池袋駅から徒歩で三十分ほどの場所に小さなアパートを借りて住んだ。彼は八歳から十三歳までを東京で過ごしたが、当時実家のあった世田谷区あたりしか記憶にはなく、それ以外の東京は知らない土地も同然だった。彼が思春期を過ごした小さな島の人々に比べ、東京の人々は粗野で無関心で言葉遣いは乱暴であるように彼には思えた。人々は路上に平気で痰を吐き、道端には煙草の吸い殻や細々としたゴミが無数に落ちていた。なぜ路上にペットボトルや雑誌やコンビニ弁当の容器が落ちていなければならないのか、彼にはわけが分からなかった。彼の覚えていた頃の東京はもっと穏やかで上品な街であったような気がした。

 でもまあいい。

 とにかくこれからここで生きていくんだ、と彼は思う。転校を二度経験し、新しい場所に自分を馴染ませる方法を彼は学んでいた。それにもう、自分は無力な子どもではない。ずっと昔、父親の転勤のために長野から東京に来た時に感じた強い不安を、今でもよく覚えていた。両親に手を引かれ、大宮から新宿へ向かう電車の中で見た景色は、今まで馴染んできた山間の風景とはまるで異なっていた。自分の住むべき場所ではないような気がした。しかし数年後、場所から拒絶されているというその感覚を、東京から種子島に転校した時にもやはり感じた。プロペラ機で島の小さな空港に降り立ち、父の運転する車から畑と草原と電柱しかない道を眺めた時、感じたのは東京への強烈な郷愁だった。

 結局、どこでも同じなのだ。それに今度こそ、僕は自分の意志でここに来たのだ。まだ荷ほどきしていない段ボールが積み重なった小さな部屋で、窓の外に折り重なる東京の街並みを眺めながら、彼は思った。

 四年間の大学生活について語るべきことはあまりないように、彼は思う。理学部の授業は忙しくかなりの時間を勉強に割かなければならなかったが、しかし必要な時間以外は大学へはあまり行かずに、アルバイトをしたりひとりで映画を観たり街を歩き回ったりすることに時間を閲けみした。大学に行くためにアパートを出た日も、状況が許せば時々大学を素通りし、池袋駅に向かう途中の小さな公園で本を読んで過ごした。公園を横切る人の数と多様さに最初のうちこそくらくらするような目眩を覚えはしたが、じきにそれにも慣れた。学校とアルバイト先に何人かの友人を得て、たいていの人間とは時間を経るうちに自然に交遊が途絶えたが、数すくない数人とはより親密な友人関係を築くことができた。自分や友人の部屋に二、三人で集まり、安い酒を飲み煙草を吸いながら夜を徹して様々なことを話した。四年かけていくつかの価値観がゆっくりと変化し、いくつかの価値観はより強固なものとなった。

 大学一年の秋に恋人ができた。アルバイトを通じて知り合った、同じ歳の横浜の実家に住む女の子だった。

 その頃、彼は大学生協で昼休みに弁当の売り子のアルバイトをしていた。なるべく学外にアルバイトを求めたいと思ってはいたが授業が忙しく、昼休みの時間をわずかながらも金銭に換えることのできる生協での仕事は都合が良かった。二時限目が十二時十分に終わると走って学食に向かい、倉庫から弁当の入ったカートを引っ張り出して売り場に運ぶ。売り子は彼を含めてふたりで、百個ほどの弁当はたいてい三十分程度で売り切れる。三時限目の始まるまでの残り十五分ほどで、売り子ふたりで学食のテーブルの隅に座って慌ただしく昼食を食べる。そういう仕事を三ヵ月ほど行った。その時の売り子のペアが、横浜の女の子だった。

 彼にとって、彼女は初めて付きあった女性だった。実に様々なことを、彼は彼女から教えられた。今まで決して知らなかった喜びや苦しみが、彼女と過ごした日々にはあった。初めて寝たのもその子だった。人間とはこれほど多くの感情を──それは自分でコントロールできるものとできないものがあったが、できないものの方がずっと多かったし、嫉妬も愛情も決して彼の意志通りにはならなかった──抱えて生きているのだということを、彼は知った。

 その子との付きあいは一年半ほど続いた。彼の知らない男が彼女に告白をしたことが、終わるきっかけだった。

「あたしは遠野くんのことが今でもすごく好きだけど、遠野くんはそれほどあたしを好きじゃないんだよ。そういうの分かっちゃうし、もう辛いの」そう言って、彼女は腕の中で泣いた。そんなことはない、と彼は言いたかったが、彼女にそう思わせてしまう自分に責任があるのだとも思った。だから諦めた。本当に心が痛む時は肉体まで強く痛むのだということを、初めて知った。

 彼女について彼が今でも強く覚えているのは、まだ付きあうことになる前、弁当を売り終えて学食のテーブルに座りふたりで急いで昼食を食べている時の姿だ。彼はいつも賄いの弁当を食べたが、彼女は常に小さな手作りの弁当を家から持ってきていた。バイトのエプロン姿のまま、とても丁寧に最後の米一粒まできちんと噛みしめて食べていた。彼の弁当に比べると半分ほどの量しかなかったのに、食べ終わるのはいつも彼女が後だった。そのことを彼がからかうと、彼女は怒ったように言ったものだ。

「遠野くんこそもっとゆっくり食べなさいよ。もったいないじゃない」