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 それがふたりで過ごす学食での時間のことを指していたのだと気づいたのは、ずっと後になってからだった。

 次に付きあうことになった女性とも、やはりアルバイトを通じて知り合った。大学三年の頃で、彼は塾講師のアシスタントのアルバイトをしていた。週に四日、彼は大学の授業が終わると池袋駅まで急ぎ、山手線で高田馬場まで行き、東西線に乗り換えて塾のある神楽坂に通った。そこは数学の講師がひとり、英語の講師がひとりの小さな塾で、アルバイトのアシスタントが彼を含めて五人いて、彼は数学講師のアシスタントだった。数学講師はまだ三十代半ばの若く人好きのする男で、都心に家と妻子を持ち気きっ風ぷが良く、仕事の面では非常に厳しくもあったが、確かに人気にそぐうだけの能力と魅力があった。その講師は大学受験のみに目的を絞り込んで矮小化された数学を実に効率的に生徒に叩き込んでいたが、しかし同時に、その先にあるはずの純粋数学の意味と魅力を時折、巧みに授業に織り込んでいた。その講義のアシスタントをすることで、大学で学んでいる解析学の理解が深まりさえした。講師もなぜか彼のことを気に入り、学生アシスタントの中で彼だけには名簿管理や採点などの雑用はやらせず、塾テキストの草案作成や入試問題の傾向分析などの基幹業務の多くを任せた。また彼も能力の及ぶ限りそれに応えた。やりがいのある仕事で、給料も悪くなかった。

 その女性は学生アシスタントのひとりで、早稲田の学生だった。そして彼の周囲にいる女性の中で抜きんでて美しかった。美しく長い髪で瞳が驚くくらい大きく、背はさほど高くはないが抜群にスタイルが良く、女の子というよりは、動物として美しいと彼は思った。精悍な鹿とか、高空を飛ぶ鳥のような。

 当然のように人気のある子で、生徒も講師もアルバイトの学生たちも機会を見つけては頻繁に彼女に話しかけていたが、彼は最初からなんとなく彼女を敬遠してしまっていた(──観賞用としては良いけれど、気軽に会話するには彼女はちょっと非現実的に美しすぎる)。しかしだからこそなのか、彼はそのうちに彼女のある種の傾向──極端な言い方をすれば、歪みのようなものに気づくことになった。

 彼女は誰かから話しかけられれば実に魅力的な笑顔でそれに応えるが、必要がある時以外は決して自分から人に話しかけることがなかった。そして周囲の人間は彼女のその孤独な振る舞いにはまったく気づかずに、それどころかとても愛想の良い女性だとさえ思っているようだった。

「美人なのにそれを鼻にかけない謙虚で気さくな人」というのが彼女に対する周囲の評判で、彼はそれを不思議に思ったが、かといってそれを訂正して回る気にもならなかったし、その態度なり錯誤なりの理由を知りたいとも特に思わなかった。彼女が人と交わりたくないと思っているのならば、そうすればいいのだ。いろいろな人間がいるんだなと素朴に思ったし、それに誰だってたぶん、程度の差こそあれどこか歪んでいるのだ。それからあまり面倒なことに首を突っ込みたくないとも、彼は思っていた。

 しかしその日、彼は彼女に話しかけざるを得なかった。十二月、クリスマス直前の寒い日だった。その日は数学講師が急用があるとかで帰宅してしまい、彼と彼女がふたりだけで塾に残りテキストの準備をすることになった。彼女の様子がおかしいと気づいたのは、ふたりだけになってから一時間近くも経ってからだ。問題作成に集中していた彼は、ふと奇妙な気配に気づき、顔を上げた。すると向かいの席に座っていた彼女がうつむいたまま小刻みに震えていた。瞳は手元の紙に向かって大きく見開いていたが、そこを見ていないのは明らかだった。額にびっしりと汗をかいていた。彼は驚いて声をかけたが、返事がないので立ち上がって彼女の肩を揺すった。

「ねえ、坂口さん! どうしたの、大丈夫?」

「……すり」

「え?」

「くすり。飲むから、飲みもの」と、奇妙に平坦な声で彼女は言った。彼は慌てて部屋を出て、塾の廊下に設置されていた自動販売機でお茶を買い、プルタブを開けて彼女に差し出した。彼女は震える手で足元のバッグから錠剤のシートを取り出して、「みっつ」と言う。彼は黄色い小さな錠剤を三つシートから剥がし、彼女の口に差し入れ、お茶を飲ませた。指先に触れた彼女のつややかな唇が驚くくらい熱かった。

 彼とその女性が付きあったのは三ヵ月ほどの短い間だった。それでも、決して忘れることのできない深い傷のようなものを、彼女は彼に残した。そしてその傷は、きっと彼女にも残ってしまったのだろうと彼は思う。あれほど急激に誰かを好きになってしまったことも、同じ相手をあれほど深く憎んでしまったことも、初めてだった。お互いにどうすればもっと愛してもらえるのかだけを必死に考える二ヵ月があり、どうすれば相手を決定的に傷つけることができるのかだけを考えた一ヵ月があった。信じられないような幸せと恍惚の日々の後に、誰にも相談できないような酷い日々が続いた。決して口にしてはいけなかった言葉をお互いに投げつけた。

 ──でも。不思議なものだなと、彼は思う。あれほどのことがあったはずなのに、彼女の姿で最も記憶に残っているのは、やはりまだふたりが付きあう前の十二月のあの日だ。

 あの冬の日、薬を飲んでしばらくすると、彼女の顔は目に見えて生気を取り戻していった。その様子を彼は息を呑んで、とても不思議で貴い現象を目にするように眺めた。まるで世界に一房しかない、誰も目にしたことのない花が開くさまを見ているようだった。ずっと昔に、同じように世界の秘密の瞬間を目にしたことがあったような気がした。このような存在をもう二度と失ってはならないと、強く思った。彼女が数学講師と付きあっていようと、そんなことはまるで関係がなかった。

*  *  *

 彼が遅い就職活動を始めたのは、大学四年の夏だった。彼女と三月に別れてから人前に出る気持ちになるまでに、結果的にそれだけかかった。親切な指導教授の熱心な働きかけもあって、秋にはなんとか就職が決まった。それが本当に自分のやりたい仕事か、やるべき仕事かどうかは皆目分からなかったが、それでも働く必要があった。研究者として大学に残るよりも、違う世界を目にしてみたかった。もう十分、同じ場所に留まったのだから。

 大学の卒業式を終え、荷物を段ボールに詰めたせいでがらんとした部屋に戻った。東に面した台所の小さな窓の向こうには、古い木造の建物の奥に夕日に染まったサンシャインの高層ビルがそびえていた。南に面した窓からは、雑居ビルの隙間に新宿の高層ビル群が小さく見える。それらの二百メートルを超える建築物は、時間帯や天候によって様々な表情を見せた。山脈の峰に最初に日の出が訪れるように、高層ビルは朝日の最初の光を反射して輝いたし、しけった海に見える遠くの岸壁のように、ビルたちは雨の日の大気に淡く姿を滲ませた。そういう景色を彼は四年間、様々な想いとともに眺めてきた。