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 窓の外にはやがて闇が降りはじめ、地上の街は無数の光を灯して誇らしげに輝き出す。段ボールの上に置かれた灰皿を引き寄せ、ポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつけた。畳にあぐらをかいて座り、煙を吐き出しながら、厚い大気を通じてチラチラと瞬く光の群れを見つめる。

 自分はこの街で生きていくのだと、彼は思った。

3

 彼が就職したのは、三鷹にある中堅のソフトウェア開発企業だった。SEと呼ばれる職種だ。配属されたのはモバイルソリューションの部署で、通信キャリアや端末メーカーが主なクライアントで、彼は小さなチームで携帯電話をはじめとする携帯情報端末のソフトウェア開発を担当した。

 仕事に就いてみて初めて分かったことだが、プログラマという仕事は彼にはとても向いていた。それは孤独で忍耐と集中力を必要とする仕事だったが、費やした労力は決して裏切られることがなかった。記述したコードが思惑通り動かない時は、原因はいつでも疑いなく自分自身にあるのだ。思索と内省を積み重ね、確実に動作する何か──何千行にも及ぶコード──を創りだすことは、今までにない喜びを彼に与えた。仕事は忙しく、帰宅はほとんど例外なく深夜で、休日は月に五日もあれば良い方だったが、それでもコンピュータの前に何時間座っていても彼は飽きなかった。白を基調とした清潔なオフィスの、パーティションで区切られた自分だけのスペースで、来る日も来る日も彼はキーボードを叩いた。

 それがこの職種によくあることなのか、それとも彼の就職した会社がたまたまそうだったのかは分からないが、社員同士の仕事以外での交流はほとんどなかった。仕事が終わってから飲みに行くような習慣はどのチームにもなかったし、昼食はそれぞれが自分の座席でコンビニ弁当を食べていたし、出社時と退社時の互いの挨拶さえなく、会議の時間は最小限で必要なやりとりのほとんどは社内メールだった。広いオフィスには常にキーボードを叩くカタカタという音だけが満ちていて、フロアに百人以上いるはずの人間の気配は限りなく希薄だった。最初は大学での人間関係とのあまりの違いに戸惑ったが──あの頃の誰かとの関係はつまるところ際限のない無駄話だったし、理由もないのに皆よく酒を飲んでいた──、すぐにそのような寡黙な環境にも慣れた。それに彼はもともと口数の多い方でもなかった。

 仕事を終えると、彼は三鷹駅から終電間近の中央線に乗り、新宿で降りて中野坂上にある小さなマンションの一室まで帰った。どうしようもなく疲れている時にはタクシーを使ったが、たいていは三十分ほどの距離を歩いた。その部屋には大学卒業後に引っ越してきていた。会社のある三鷹の方が家賃の相場は安かったが、あまり会社に近すぎる住まいには抵抗があったし、何よりも池袋のアパートから小さく見えていた西新宿の高層ビル群に、あの眺めに、もっと近づいてみたいという気持ちが強かった。

 だからかもしれない。彼が一日の中で最も好きな時間は、電車で荻窪あたりを過ぎた頃、窓の向こうに西新宿の高層ビルが姿を現し、それが徐々に近づいてくるさまを眺めている時だ。東京行きの最終電車はぽつりぽつりと空席がある程度にすいていて、スーツに包まれた体には一日の労働の疲れと充実感が心地よく満ちている。雑居ビルの向こうに小さく見え隠れしていた高層ビルをじっと見つめていると、それはガタン、ガタンという電車の振動とともにやがて際立った存在として視界に立ち上がってくる。東京の夜空はいつでも奇妙に明るく、ビルは空を背に黒々としたシルエットだ。こんな時間にも、人が働いていることを示す黄色い窓の光が美しく灯っている。赤く点滅する航空障害灯は、まるで呼吸をしているよう。自分は今でも遠く美しい何かに向かって進んでいるのだと、それを見つめつつ彼は思うことができた。そういう時は、心の奥がすこし震えた。

 そしてまた朝が来て、彼は会社に向かう。社屋のエントランスにある自動販売機で缶コーヒーを一本買い、タイムカードを押して、自分の席に座ってコンピュータの電源を入れる。OSが起動する間に缶コーヒーを飲みながら一日の作業予定を確認する。マウスを動かして必要なプログラムのいくつかを立ち上げ、指をキーボードのホームポジションに乗せる。目的に辿りつくためのアルゴリズムをいくつか考え、検討し、APIを叩き、プロシージャを組み立てる。マウスカーソルもエディタのキャレットも、自分の肉体にぴったりとよりそっている。APIの先にあるOS、その先にあるミドルウェア、そしてその先にあるはずの、シリコンのかたまりであるハードウェアの動作について、非現実的な電子の振る舞いについて、思いを馳せる。

 そのようにプログラムに熟練していくほどに、彼はコンピュータそのものについても畏敬の念を抱くこととなった。すべての半導体技術を支える量子論への漠然とした知識はあったが、あらためて職業として日常的にコンピュータに接しそれを動作させることに慣れるほどに、自分の手にした道具の信じられないほどの複雑さ、それを可能にした人の所業に思いを馳せないわけにはいかなかった。それはほとんど神秘的だとさえ、彼は思った。宇宙を記述するために生まれた相対性理論があり、ナノスケールの振る舞いを記述する量子論があり、そしてそれらは来るべき大統一理論なり超弦理論なりでいつか統合されるのかもしれないと考えた時、コンピュータを扱うということ自体が何か世界の秘密に触れる行為であるかのように思えた。そしてその世界の秘密には、もうずっと昔に過ぎ去ってしまった夢や想い、好きだった場所や放課後に聴いた音楽、特別だった女の子との叶えることのできなかった約束、そういったものに繋がる通路が隠されているような──はっきりとした理由はないのだけれど、そんな気がした。だから何か大切なものを取り戻そうとするかのようなある種の切実さを持って、彼は仕事に深くのめり込んでいった。まるで孤独な演奏者が楽器と深く対話するように、彼はキーボードを静かに叩き続けた。

 そのようにして、社会に出てからの数年は瞬く間に過ぎた。

 最初のうち、それは久しぶりに訪れた獲得の日々であるように、彼には思えた。中学時代、自分の体が大人に向かって変化を続けたあの誇らしい感覚──筋肉や体力を日に日に身に纏い、病弱だった幼い体が刷新されていくあの懐かしい感覚を、プログラミング技術の向上は彼に思い起こさせた。そして彼の仕事は周囲の信頼を徐々に獲得し、それに応じて収入も上がった。彼は季節に一度ほどのペースで仕事のための新しいスーツを買い、休日にはひとりで部屋の掃除や本を読んで過ごし、半年に一度ほどは昔からの友人に会って酒を飲んだ。友人はもう増えも減りもしなかった。