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 毎日朝八時半に家を出て、深夜一時過ぎに部屋に戻る。

 そういう日々をひたすら繰り返す。電車の窓から眺める西新宿の高層ビルはどの季節、どのような天候でもため息が出るほど美しかった。それどころか年齢を重ねるほどに、その眺めは輝きを増した。

 時折、その美しさが自分に何かを突きつけているような気がした。だがそれがなんなのかは、彼には分からなかった。

*  *  *

 遠野さん、と新宿駅のホームで名前を呼ばれたのは、久しぶりに晴れ間がのぞく梅雨の中なか日び、日曜日の午後だった。

 声をかけてきたのはベージュのつば広の日傘帽子をかぶり眼鏡をかけた若い女性だった。とっさには誰か分からなかったが、理知的な雰囲気には覚えがあるような気がする。言葉に窮していると「……システムにお勤めですよね」と会社名を言われ、そこでようやく思い出した。

「ああ、ええと、吉村さんの部署の」

「水野です。良かった、思い出してもらえて」

「すみません、以前お会いした時はスーツを着てらしたから……」

「そうか、今日は帽子もかぶってますもんね。私は遠野さん、すぐに分かりましたよ。私服だと学生さんみたいですね」

 学生? 悪気はないんだろうなと思いながら、なんとなく階段に向かって並んで歩き始めた。そういう彼女こそ、まだ大学生のように見えた。茶色のウェッジサンダルから見える足先には、薄桃色のペディキュアがひかえめに光っていた。名前はなんと言ったっけ……、ええと、水野さんだ。先月成果物の引き渡しの際にクライアントの会社を訪れた時、先方の担当者の部下が彼女で、二度ほど会ったことがあった。名刺交換くらいしかしなかったが、ずいぶん真面目そうな人だなと思ったのと、澄んだ声が印象に残っていた。

 そうだ、確か水野理り紗さという名前だった。名刺の字面と本人の印象がきれいに一致しているなと思った覚えがある。ホームから階段を下り、駅の通路をなんとなく右に曲がって歩きながら彼は訊いた。

「水野さんも東口ですか?」

「えーと、はい、どこでも」

「どこでも?」

「ええと、実は特に予定がないんです。でも雨も上がったしお天気もいいし、買い物でもしようかと思って」と笑いながら言う。つられて彼も笑顔になる。

「同じです、僕も。じゃあ良かったら、すこしお茶でも飲みませんか」そう言うと、水野はどきりとするような笑顔を向けて、はい、と答えた。

 ふたりは東口近くの地下にある狭い喫茶店でコーヒーを飲み、二時間ほど話し、連絡先を交換してその日は別れた。

 ひとりになって本屋の棚の間を歩きながら、彼は喉が軽く痺れたように疲れていることに気づいた。そういえば、こんなふうに誰かと目的のない会話を長い時間したのはずいぶん久しぶりだった。ほとんど初対面のようなものなのに、二時間もよくも飽きずに話をしたものだ、とあらためて気づく。仕事のプロジェクトがもう終わっているという気安さもあったかもしれない。互いの会社の噂話や、住んでいる場所のことや、学生時代のこと。特別な話は何もなかったけれど、彼女との会話は呼吸がぴったりと重なるように心地よかった。久しぶりに、胸の奥がじんわりと温かくなっていた。

 その一週間後に、彼女にメールを出して夕食に誘った。残業を早めに切り上げ、吉祥寺で待ち合わせて一緒に食事をして、夜十時過ぎに別れた。その翌週、今度は彼女から食事の誘いがあり、その次の週は、彼の誘いで休日に待ち合わせて映画を観て食事をした。そのように礼儀正しく慎重に、ゆっくりとふたりは関係を重ねていった。

 水野理紗は、会うほどに感じが良くなっていくというタイプの女性だった。眼鏡と長い黒髪のせいで一見地味に見えるのだけれど、よく見ると顔立ちはびっくりするくらい整っていた。肌を隠すような服装も口数のすくなさもどこか恥ずかしそうな仕草も、まるで「綺麗になんて見られたくない」と思っているかのようだった。年齢は彼より二つ下で、性格は誠実で素直だった。決して大声になることがなく、ゆっくりと気持ちの良いリズムで喋った。一緒にいると緊張がほどけた。

 彼女のマンションは西国分寺にあり会社も中央線沿いだったから、デートはいつもその沿線だった。電車の中で時折触れあう肩や、食事をシェアする時のしぐさや、並んで歩く時の歩調から、彼は彼女の好意をはっきりと感じることができた。どちらかが一歩踏み出せばきっとどちらも拒否しないだろうことを、すでにお互いに分かっていた。それでも、彼にはそうすべきかどうかの判断がつかなかった。

 今まで僕は──と、吉祥寺駅で反対側のホームへと向かう彼女を見送りながら彼は思う。誰かを好きになる時、急にそうなりすぎてしまっていたような気がする。そしてあっという間に食い尽くし、その人を失ってしまうのだ。そういうことを、もう繰り返したくなかった。

*  *  *

 その年の夏の終わり、ある雨の晩に自分の部屋で、彼はH2Aロケットの打ち上げが成功したというニュースを目にした。

 湿気の酷い日で、窓を閉め切ってクーラーを低い温度でつけていたが、それでも雨が地表を叩く音と濡れた道路を車が滑る音とともに、べたつく湿気が部屋の中に忍び込んでいた。テレビの画面には、見覚えのある種子島宇宙センターから巨大な炎を吐き出して上昇するH2Aの姿が映っている。カットが切り替わり雲間を昇ってゆくH2Aを超望遠で捉えた映像になり、その次に、ロケット本体に据え付けられたカメラから補助ブースターを見下ろしたカットになった。遙か眼下の雲の切れ目に、遠ざかる種子島の全景が見えていた。彼が高校時代を過ごした中種子町もその海岸線も、くっきりと見分けることができた。

 一瞬、ぞくりとした寒気のようなものが彼の体を走った。

 でもそういう光景を前に、自分が何を感じるべきなのかが彼にはよく分からなかった。種子島はもう故郷ではなかった。両親はずいぶん前に長野に転勤していておそらくそこに永住するだろうし、その島は彼にとってはすでに通過した場所だった。ぬるくなりはじめた缶ビールをひとくち飲み、苦い液体が喉を通過して胃に落ちていく感触を確かめる。若い女性のニュースキャスターが、打ち上げられた衛星は移動端末のための通信衛星だと、なんの感慨もない口調で語っていた。──ということは、この打ち上げは自分の仕事ともまったく無関係なわけでもないのだ。でもそういうこととは関係なく、自分はずいぶん遠いところに運ばれてきてしまったと、彼は思う。