それはもう十五年も前、好きだった男の子との初めてのデートの時に渡すつもりで書いた手紙だった。
その日は深く静かな雪の日だったな、と彼女は思い出す。まだ私は十三歳になったばかりで、私が好きだった男の子は電車で三時間もかかる場所に住んでいて、その日は彼が電車を乗り継いで私に会いに来てくれる日だったのだ。でも雪のせいで電車が遅れて、彼は結局四時間以上も遅れてしまった。彼を待っている間に、私は木造の小さな駅でストーブの前の椅子に座りながら、この手紙を書いたんだ。
手紙を手にしていると、その時の不安や寂しさが蘇った。その男の子を愛しいと思う気持ちも、彼に会いたいと思う気持ちも、それが十五年も前のものだったなんて信じられないくらいにありありと思い出すことができた。それはまるで今ある心のように強く鮮やかで、その残照の眩しさに彼女は戸惑いを覚えるほどだった。
私はほんとうにまっすぐに彼のことが好きだったんだな、と彼女は思う。私と彼は、その初めてのデートで初めてのキスをした。そのキスの前と後とでは、世界がまるで変わってしまったみたいに私は感じた。手紙を渡せなかったのは、だからだ。
そういうことを今でもまるで昨日のことのように──そうだ、ほんとうに昨日のことみたいだ──、彼女は思い出すことができた。左手の薬指にはめた小さな宝石のついた指輪だけが、十五年という時の経過を示していた。
その晩、彼女はあの日の夢を見た。まだ子どもだった彼女と彼は、雪の降る静かな夜、桜の樹の下でゆっくりと落ちてくる雪を見上げていた。
翌日、岩舟駅には粉雪が舞っていた。とはいえ雲は薄く、ところどころには青空が透けて見えており、本降りになる前に止みそうな気配だった。それでも十二月に降雪があるのはずいぶん久しぶりだ。あの頃のような大雪は、ここ数年ほとんど降っていなかった。
お正月までいればいいのに、と母親に言われ、でもいろいろ準備もあるから、と彼女は答える。
「そうだな、彼にもうまいもの作ってやれよ」と父親が言う。うん、と返事をしながら、お父さんもお母さんも歳をとったなと彼女は思った。でもそれも当然だ、もうすぐ定年の年齢だもの。そして私だって、もう結婚するような歳になったのだから。
小山行きの電車を待ちながら、こんなふうに両親と三人で駅のホームにいるというのはなんだかおかしな感じだと、彼女は思う。もしかしたらこの土地に引っ越してきた日以来かもしれない。
あの日、東京から電車を乗り継ぎ、母親とふたりでこのホームに降りた時の心細さを、彼女は今でもよく覚えている。先に来ていた父親が駅のホームで待っていてくれた。岩舟はもともとは父親の実家だったから、彼女も幼い頃から何度か来たことのある場所ではあった。何もないところだとは思ったけれど、静かで良い場所だとも思っていた。それでも暮らすとなると話は別なのだ。宇都宮で生まれ、ものごころがついてからは静岡で育ち、小学校四年から六年までを東京で過ごした彼女にとっては、岩舟駅の小さなホームはとてもとても心細く見えた。自分の住むべき場所ではないように感じた。東京への強烈な郷愁で、涙が出そうにさえなった。
「何かあったら電話するのよ」と、昨夜から何度も繰り返していることを母親が言う。ふいに両親と、この小さな町が愛おしくなる。今では離れがたい故郷なのだ。彼女は笑って優しく答える。
「大丈夫よ。来月には式で会うんだからそんなに心配しないで。寒いからもう戻りなよ」
そう彼女が言い終わるのと同時に、遠くから近づいてくる両毛線の警笛が聞こえる。
昼下がりの両毛線はすいていて、車輌には彼女ひとりしかいなかった。持ってきた文庫本に集中できずに、頬杖をついて窓の外を眺める。
稲が刈られた後の何もない田園が、いちめんに広がっている。その目の前の風景に、厚い雪が降り積もった状態を彼女は想像してみる。時間は真夜中。灯りは遠くに数えるほど。きっと窓枠にはびっしりと霜が固まっている。
──それはとても心細い風景だったろうと、彼女は思う。空腹と誰かを待たせている罪悪感をいっぱいに抱え、やがて停車してしまう電車の中で、あの人はその風景に何を見ていたんだろう。
……もしかしたら。
もしかしたら、私が家に帰っていることを、彼は願っていたかもしれない。優しい男の子だったから。でも私はたとえ何時間でも彼を待つのは平気だった。会いたくて会いたくてたまらなかった。彼が来ないかもしれないなんて疑いは欠片も持たなかった。あの日電車に閉じこめられていた彼に声をかけてあげることができるなら、と彼女は強く思った。もしそんなことができるのなら。
大丈夫、あなたの恋人はずっと待っているから。
あなたがちゃんと会いに来てくれることを、その女の子はちゃんと知っているから。だからこわばった体から力を抜いて。どうか恋人との楽しい時間を想像してあげて。あなたたちはその後もう二度と会うことはないのだけれど、あの奇跡みたいな時間を、どうか大切なものとしていつまでも心の奥にとどめてあげて。
そこまで考えて、彼女は思わず笑みをこぼした。──何を考えているのかしら、私は。昨日からあの男の子のことばかり。
たぶん昨日見つけた手紙のせいだ、と彼女は思う。入籍前日に他の男の子のことばかり考えているなんて、ちょっと不誠実だろうか。でも夫となるあの人は、きっとそんなことを気にしないだろうとも、彼女は思う。彼が高崎から東京へと転勤することが決まり、それを機会にふたりは結婚を決めた。細かい不満を言い出せばきりがないけれど、でも私は彼をとても愛している。たぶん彼も私を。あの男の子との想い出は、もう私自身の大切な一部なのだ。食べたものが血肉となるように、もう切り離すことのできない私の心の一部。
貴樹くんが元気でいますようにと、窓の外の流れていく景色を眺めながら、明里は祈った。
6
ただ生活をしているだけで、悲しみはそこここに積もる。
電灯のスイッチを押し、蛍光灯に照らされた自分の部屋を眺めながら、そう、遠野貴樹は思う。まるで細かな埃が気づかぬうちに厚く堆積するように、いつの間にかこの部屋にはそういう感情が満ちている。
たとえば、今は一つだけになった洗面所の歯ブラシ。たとえば、かつては他の人のために干していた白いシーツ。たとえば、携帯電話の通話履歴。
いつもと同じ最終電車で部屋に戻ってきて、ネクタイを外しスーツをハンガーに掛けながら、彼はそのようなことを思う。