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 でもそれを言うならば水野の方がずっと辛いに違いないと、冷蔵庫から缶ビールを取り出しながら彼は思う。水野がこの部屋に来た回数よりもずっと多く、彼は西国分寺の水野の部屋に通ったからだ。それをとても申し訳なく思う。そんなつもりではなかったのだ。胃に送り込んだ冷たいビールが、帰り道の外気で冷え込んだ彼の体温をさらに奪う。

 一月末。

 最後の仕事の日も、彼はいつもと同じようにコートを着込んで会社に向かい、五年間座り慣れた自分のデスクにつき、コンピュータの電源を入れ、OSが起動する間にコーヒーを飲みながらその日一日の作業確認をした。業務の引き継ぎはすっかり終わっていたが、他のチームのための単発の小さな仕事を、彼は退職日までできる限り引き受けていた。そして皮肉なことに、そういう仕事を通じて彼には社内に友人と呼べるような者たちが何人かできていた。皆が彼の退職を惜しみ、今夜は一席設けたいと言ってくれたが、彼はそれを丁寧に断った。「せっかくなのに申し訳ないんですけど、いつも通りに仕事をしたいんです。これからしばらく暇になるから、また誘ってください」と彼は言った。

 夕方にはかつてのチームリーダーが彼の席までやってきて、床を見つめながら「いろいろ悪かったな」、とぼそりと言った。彼はすこし驚いて、「とんでもありません」と返事をした。彼らが会話をしたのは、一年前にチームリーダーが他チームに異動になって以来だった。

 そしてキーボードを叩きながら、もう二度とここに来なくてもよいのだと思う。それはとても不思議な感覚だった。

〈あなたのことは今でも好きです〉と、水野はその最後のメールに書いていた。

〈これからもずっと好きなままでいると思います。貴樹くんは今でも私にとって、優しくて素敵で、すこし遠い憧れの人です〉

〈私は貴樹くんと付きあって、人はなんて簡単に誰かに心を支配されてしまうものなんだろう、ということを初めて知りました。私はこの三年間、毎日まいにち貴樹くんを好きになっていってしまったような気がします。貴樹くんの一言ひとこと、メールの一文いちぶんに喜んだり悲しんだりしていました。つまらないことでずいぶん嫉妬して、貴樹くんをたくさん困らせました。そして、勝手な言い方なのだけれど、そういうことになんだかちょっと疲れてきてしまったような気がするのです〉

〈私はそういうことを半年くらい前から、貴樹くんにいろんな形で伝えようとしてきました。でも、どうしても上手く伝えることができませんでした〉

〈貴樹くんもいつも言ってくれているように、あなたはきっと私のことを好きでいてくれているのだろうとは思います。でも私たちが人を好きになるやりかたは、お互いにちょっとだけ違うのかもしれません。そのちょっとの違いが、私にはだんだん、すこし、辛いのです〉

 最後の帰宅もやはり深夜だった。

 特に冷える夜で、電車の窓は結露で隙間なく曇っていた。その向こうの滲んだ高層ビルの光を、彼は見つめた。解放感もなければ、次の職を探さなければという焦りもなかった。何を思えばよいのかが、よく分からなかった。最近僕は何も分からないんだなと、彼は苦笑する。

 電車を降りていつものように地下通路を抜け、西新宿のビル街に出る。マフラーもコートもまったく役に立たないくらい、夜の空気は痛いほどに冷たかった。ほとんど灯の消えた高層ビルはずっと昔に滅んだ巨大な古代生物のように見えた。

 その巨体の谷間をゆっくりと歩きながら、

 ──俺はなんて愚かで身勝手なのだろう

 と彼は思う。

 この十年、いろいろな人のことをほとんどなんの意味もなく傷つけ、それは仕方のないことなんだと自身を欺き、自分自身も際限なく損ない続けてきた。

 なぜもっと、真剣に人を思いやることができなかったのだろう。なぜもっと、違う言葉を届けることができなかったのだろう。──彼が歩を進めるほどに、自分でもほとんど忘れていたような様々な後悔が心の表面に浮き上がってきた。

 それを止めることができなかった。

「すこし辛いんです」という水野の言葉。すこし。そんなわけはないのだ。「悪かったな」という彼の言葉、「もったいないじゃない」と言ったあの声、「私たちはもうダメなのかな」という塾の女の子、「優しくしないで」という澄田の声と、「ありがとう」という最後の言葉。「ごめんね」と呟く電話越しのあの声。それから。

「あなたはきっと大丈夫」、という明里の言葉。

 今まで深い海の底のように無音だった世界に、突然それらの声が浮き上がり、彼の中に溢れた。同時に様々な音が流れ込んでくる。ビルに巻く冬の風、街道を走るバイクやトラックや様々な車種、どこかでのぼりがはためく音、それらが混在して低く響く都市そのものの音。気づいたら世界は音に満ちていた。

 それから、激しい嗚咽。──自分の声だ。

 十五年前の駅舎以来おそらく初めて、彼の目は涙をこぼしていた。涙はいつまでもいつまでも、止めどなく溢れた。まるで体の中に大きな氷のかたまりを隠していてそれが溶け出したかのように、彼は泣き続けた。他にどうしようもなかった。そして思う。

 たったひとりきりでいい、なぜ俺は、誰かをすこしだけでも幸せに近づけることができなかったんだろう。

 高さ二百メートルの壁面を見上げると、遙か高み、滲んだ視界に赤い光が明滅していた。そんなに都合よく救いが降ってくるわけはないんだ、と彼は思う。

7

 その晩、彼女は見つけたばかりの古い手紙の封を、そっと開けた。

 取り出した便箋は、昨日書いたばかりのように真新しかった。自分の字もあまり今と変わっていなかった。

 すこしだけ読み進めて、ふたたび丁寧に封筒にしまう。いつかもっと歳をとったら、もう一度読んでみようと思う。まだきっと早い。

 それまでは大切にしまっておこう、そう思う。

*  *  *

 貴樹くんへ

 お元気ですか?

 今日がこんな大雪になるなんて、約束した時には思ってもみませんでしたね。電車も遅れているようです。だから私は、貴樹くんを待っている間にこれを書くことにします。

 目の前にはストーブがあるので、ここは暖かいです。そして私のカバンの中にはいつもびんせんが入っているんです。いつでも手紙が書けるように。この手紙をあとで貴樹くんに渡そうと思っています。だからあんまり早く着いちゃったら困るな。どうか急がないで、ゆっくり来てくださいね。