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 約束の日まではまだ二週間あったから、僕は時間をかけて明里に渡すための長い手紙を書いた。それは僕が生まれて初めて書いた、たぶん、ラブレターだった。自分が憧れている未来のこと、好きな本や音楽のこと、そして、明里が自分にとってどれほど大切な存在であるかを──それはまだ稚拙で幼い感情表現であったかもしれないけれど──なるべく正直に書き綴った。具体的な内容は今ではよく覚えていないけれど、便箋に八枚ほども書いたと思う。その頃の僕には、明里に伝えたいこと、知って欲しいことが本当にたくさんあったのだ。この手紙を明里が読んでくれさえすれば、僕は鹿児島での日々にも上手く耐えることができるだろうと思った。それは明里に知っておいて欲しい、当時の僕の断片だった。

 明里へのその手紙を書いている数日の間に、何度か明里の夢を見た。

 夢の中で、僕は小さくて俊敏な鳥だった。電線に覆われた夜の都心をくぐり抜け、鋭く羽ばたいてビルの上空へ駆け上がる。グラウンドを走る何百倍ものスピードと、世界でひとりだけの大切な人の元へ向かっているという高揚に、鳥である小さな体に溢れるくらいのぞくぞくとする快感が走る。みるみるうちに地上は遠く離れ、密集する街の灯りは強い夜風にまるで星のように瞬き、車列の光がどくどくと脈打つ動脈や静脈のように見える。やがて僕の体は雲を抜け、月光に照らされたいちめんの雲海に出る。透き通った青い月光が雲の峰々を鈍く光らせ、まるで違う惑星のようだと思う。どこまでも望む世界に行ける力を得た喜びに、羽毛に覆われた身体が強く震える。あっという間に目的地が近づき、僕は意気揚々と急降下し、眼下に広がる彼女の住む土地を眺める。遙かまで広がる田園、人間たちの住むまばらな屋根、所々に茂る林を縫って、一筋の光が動いているのが見える。電車だ。あれにもきっと僕自身が乗っているのだ。そして僕の目は、駅のホームでひとり電車を待っている彼女の姿を捉える。髪を切って耳を出した少女がホームのベンチにひとりだけで座っていて、彼女の近くには大きな桜の樹が一本立っている。まだ桜は咲いていないけれど、その硬い樹皮の中で息づく艶なまめかしい情動を僕は感じる。やがて少女は僕の姿に気づき、空を見上げる。もうすぐ会える。もうすぐ──。

 明里との約束の当日は、朝から雨だった。空はまるでぴったりと蓋がかぶされたように灰色一色に覆われていて、そこから細く冷たい雨の粒がまっすぐに地上に降り注いでいた。近づきつつある春がまるで心変わりをして引き返してしまったような、真冬の匂いのする日だった。僕は学生服の上に濃い茶色のダッフルコートをはおり、明里への手紙を学生鞄の奥にしまってから学校に向かった。帰りは深夜になる予定だったので、親には帰りが遅くなるけれど心配しないでくださいという手紙を残した。僕と明里は親が知り合い同士というわけではないし、あらかじめ事情を話しても許してもらえないと思ったからだ。

 その日一日の授業を、僕は窓の外を眺めながら落ち着かない気持ちで過ごした。授業の内容はまるで頭に入ってこなかった。たぶん制服を着ているはずの明里の姿を想像し、交わされるだろう会話を想像し、心地よい明里の声を思い浮かべた。そうだ、あの頃はきちんと意識はしていなかったけれど、僕は明里の声が大好きだったんだとあらためて思った。明里の声の空気の震わせかたが、僕は好きだった。それは僕の耳をいつでも優しく柔らかく刺激した。もうすぐその声が聞けるのだ。そんなことを考えていると体中が熱く火照り、僕はそのたびに気持ちを落ち着けるために窓の外の雨を眺めた。

 雨。

 秒速五メートルだ。教室から眺める外の景色は日中なのに薄暗く、ビルやマンションの窓の多くには電灯が灯っていた。ずっと遠くに見えるマンションの踊り場の蛍光灯が消えかかっていて、チカチカと時折瞬いていた。僕が眺めている間にも雨粒は次第に大きさを増し、やがて一日の授業が終わる頃には、雨は雪になった。

 放課後、周囲のクラスメイトがいなくなったのを確認し、僕は鞄から手紙とメモを取り出した。手紙はすこし迷ってコートのポケットに入れた。それはどうしても明里に渡しておきたい手紙だったから、いつでも指先に触れていた方が安心するような気がしたのだ。メモの方は電車の乗り換えルートや乗車時間をまとめたもので、僕はもう何十回目かになる確認をもう一度行った。

 まず、豪徳寺駅を午後三時五十四分発の小田急線で新宿駅に行く。そこから埼京線に乗り換え大宮駅まで行き、宇都宮線に乗り換え、小山駅まで。そこからさらに両毛線に乗り換え、目的の岩舟駅には六時四十五分着だ。明里とは岩舟駅で夜七時に待ち合わせているので、これでちょうど良い時間に到着できるはずだった。ひとりだけでこれだけ長い電車での移動をするのは初めての経験だったが、大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。大丈夫、難しいことは何もないはずだ。

 薄暗い学校の階段を駆け下り、玄関で靴を履き替えるために靴箱を開ける。鉄の蓋を開けるガチャンという音が誰もいない玄関ホールに大きく響き、それだけですこし鼓動が早くなってしまう。朝持ってきた傘は置いていくことにして、玄関を出て空を見上げる。朝は雨の匂いだった空気がきちんと雪の匂いに変わっている。雨のそれよりももっと透明で鋭くて、心がすこしざわめく匂いだ。灰色の空から無数の白い欠片かけらが舞い降りていて、じっと見ていると空に吸い込まれそうになる。僕は慌ててフードをかぶり、駅に走った。

*  *  *

 新宿駅にひとりで来たのは初めてだった。僕の生活圏からはほとんど馴染みのない駅だったが、そういえば何ヵ月か前にクラスメイトの友人と映画を観に新宿まで来たことがあった。その時は友人とふたりで小田急線で新宿駅まで来て、JRの東口改札から地上に出るのにさんざん迷ってしまったのだ。映画の内容よりもこの駅の複雑さと混雑さの方がずっと強く印象に残っていた。