小田急線の改札を出て、迷わないように立ち止まり慎重に案内板を探し、「JR線きっぷ売り場」と書かれている方向に向かって早足で歩いた。柱が立ち並ぶ巨大な空間の向こうに何十台もの券売機が並んだスペースがあり、すいていそうな列に並んで切符を買う順番を待つ。目の前のOL風の女の人からはかすかに香水の甘い匂いがして、なぜか胸が切ないような苦しいような気持ちになる。隣の列が動くと今度は横にいる年配の男性のコートからツンとするナフタリンの匂いがして、その匂いは僕に引っ越しの時の漠然とした不安を思い起こさせる。大量の人間の声の固まりがわーんという低い響きになって地下の空間を満たしている。雪に濡れた靴先がすこし冷たい。頭がすこしくらくらする。自分が切符を買う番になり、券売機にボタンがないことに戸惑ってしまう(その頃はまだほとんどの駅の券売機がボタン式だったのだ)。隣を盗み見て、画面に直接指を触れて目的のキップを選べば良いのだと分かる。
自動改札を抜けて駅の構内に入り、視界の果てまで並ぶいくつもの乗り場案内板を注意深く見ながら、人波を縫うようにして埼京線乗り場を目指した。〈山手線外回り〉、〈総武線中野方面行き〉、〈山手線内回り〉、〈総武線千葉方面行き〉、〈中央線快速〉、〈中央本線特急〉……。いくつもの乗り場を通り過ぎ、途中、駅構内案内図を見つけ立ち止まりじっと眺めた。埼京線乗り場はいちばん奥だ。ポケットからメモを取り出して、腕時計(中学入学祝いに買ってもらった黒いGショック)の時間と見比べる。新宿駅発四時二十六分。腕時計のデジタル数字は四時十五分を示している。大丈夫、まだ十分間に合う。
構内でトイレを見つけ、念のため入った。埼京線には四十分間くらい乗ることになるから、用を足しておいた方がいいかもしれないと思ったのだ。手を洗う時に鏡に映った自分を見た。汚れた鏡面の向こうに、白っぽい蛍光灯の光に照らされた自分の姿が映っている。この半年で背も伸びたし、僕はすこしは大人っぽくなったはずだ。寒さからか高揚からか、頬がすこし赤くなっていることを恥ずかしく思う。僕は、これから、明里に会うんだ。
埼京線の車内は帰宅する人々で混み始めていて、座席に座ることはできなかった。僕は他の何人かに倣ならって最後尾の壁によりかかり、吊り広告の週刊誌の見出しを眺め、窓の外を眺め、時折乗客の姿を盗み見た。視線も気持ちも落ち着かず、鞄に入っているSF小説を取り出して読む気にもなれなかった。座席に座った高校生の女の子と、その子の目の前に立っている友人らしき女の子との会話がきれぎれに聞こえてくる。ふたりとも短いスカートからすらりとしたはだかの脚を出し、ルーズソックスを履いている。
「この前の男の子、どうだった?」
「誰?」
「ほら北高の」
「えー、趣味悪くない?」
「そんなことないよ。私は好みだなあ」
たぶんコンパか何かで知り合った男の子の話だろうと思う。自分のことを話されているわけでもないのに僕はなぜかすこし恥ずかしくなる。コートのポケットの中で指先に触れている手紙の感触を確かめながら、窓の外に目を向ける。電車はさっきから高架橋の上を走っている。初めて乗る路線だった。普段乗る小田急線とは揺れ方や走る音が微妙に違って、それが知らない場所に向かっているという不安な気持ちを強くさせる。冬の弱い夕日が地平線の空を薄いオレンジに色づけていて、地上は視界のずっと彼方までびっしりと建物が並んでいる。雪はまだずっと降り続いている。もう東京ではなく埼玉に入っているのだろうか。見知っている風景よりも、街はずっと均一に見える。中くらいの高さのビルとマンションばかりが地上を埋めている。
途中の武蔵浦和という駅で、快速電車の待ち合わせのために電車は停車した。「大宮までお急ぎのお客さまは向かいのホームでお乗り換えください」と車内放送が告げ、乗客の半分くらいがどやどやと電車を降りてホームの向かい側に並び始め、僕もその最後尾についた。何十本もの鉄道架線と、降りしきる雪の厚い層を挟んだ西の低い空に、たまたまの雲の切れ間から小さな夕日が顔を出していて、その光を受けて夕日の下の何百もの屋根の群れが淡く光っている。その風景を眺めながら、僕はずっと昔にこの場所に来たことがある、とふいに思い出した。
そうだ、これは初めて乗る路線ではなかった。
小学三年生にあがる直前、長野から東京に引っ越してくる時に、僕は両親とともに大宮駅からこの電車に乗って新宿駅に向かったのだ。見慣れた長野の田園風景とはまるで異なるこの風景を、僕は電車の窓から激しい不安を抱きながら眺めていた。見わたすかぎり建物だけのこの風景の中で僕はこれから暮らすのだと思うと、不安で涙が出そうになった。それでもあれから五年の月日が経ち、僕はひとまずここまでは生き抜いてこれたのだと思った。僕はまだ十三歳だったけれど、大袈裟ではなくそう思った。明里が僕を助けてくれたのだ。そして明里にとっても同じであって欲しいと、僕は祈った。
大宮駅もまた、新宿駅ほどの規模ではないにせよ巨大なターミナル駅だった。埼京線を降りて長い階段を昇り、駅の人混みの中を乗り換えの宇都宮線のホームに向かった。構内はさらに雪の匂いが濃く強くなっていて、行き交う人々の靴は雪の水を吸ってぐっしょりと濡れていた。宇都宮線のホームも帰宅の人々で溢れていて、電車のドア位置になる場所には人々の長い列ができていた。僕は人の列とは離れた場所にひとりで立って電車を待った。行列に並んでもどうせまた座れないのだ。──そこで初めて、僕は嫌な予感がした。構内アナウンスのせいだと気づくまで一瞬の間があいた。
「お客さまにお知らせいたします。宇都宮線、小山・宇都宮方面行き列車は、ただいま雪のため到着が八分ほど遅れています」とアナウンスが告げていた。
その瞬間まで、僕はなぜか電車が遅れるなんていう可能性を考えもしなかったのだ。メモと腕時計を見比べてみる。メモでは五時四分の電車に乗るはずが、もう五時十分だった。急に寒さが増したような気がして、身震いがした。二分後にプァァーン……という長く響く警笛とともに電車の光が差し込んできた時も、寒気は治まらなかった。
宇都宮線の中は、小田急線よりも埼京線よりも混み合っていた。皆そろそろ一日の仕事なり勉強なりを終え、家に帰っていく時間なのだ。車輌は今日乗ってきた他の電車に比べるとずっと古く、座席は四人掛けのボックス席で、それは長野にいた頃に地元を走っていたローカル線を思い出させた。僕は片手で座席に付いている握りをつかみ、片手をコートのポケットに入れ、座席に挟まれた通路に立っていた。車内は暖房が効いていて暖かく、窓は曇り四隅にはびっしりと水滴が張り付いていた。人々はぐったりと疲れたように一様に無口で、その姿は蛍光灯に照らされた古い車輌にしっくりと馴染んでいるように見えた。僕だけがこの場所に相応しくないように思えて、すこしでもその違和感がなくなるようにと僕はできるだけ息を潜め、じっと窓の外を流れる景色を眺めていた。