おにぎりはずっしりと重く、僕は大きな口を開けてひとくち頬張った。噛みしめているうちにも涙が溢れそうで、それが明里にばれないようにうつむきながら飲み込んだ。今まで食べたどんな食べ物よりもおいしかった。
「今まで食べた中でいちばんおいしい」と僕は正直に言った。
「おおげさだなー」
「ホントだよ!」
「きっとお腹がすいてたからよ」
「そうかな……」
「そうよ。私も食べよっと」と嬉しそうに明里は言って、おにぎりを手に取った。
それからしばらく、僕たちはお弁当を食べ続けた。ハンバーグも卵焼きも、驚くくらいおいしかった。そう伝えると明里は恥ずかしそうに笑い、それでもどこか誇らしげに、「学校が終わってから一度家に戻って作ったんだ」と言った。「お母さんにちょっと教えてもらっちゃったんだけど」
「お母さんになんて言って出てきたの?」
「何時になっても絶対に家に帰るから、どうか心配しないでって手紙置いてきたの」
「僕と同じだ。でも明里のお母さん、きっと心配してるよね」
「うーん……でもきっと大丈夫よ。お弁当作ってる時『誰にあげるの?』なんて訊かれて私笑ってたんだけど、お母さんちょっと嬉しそうだったもん。きっと分かってるんじゃないかな」
何を分かっているのかが気になったけど、なんとなく訊けずに僕はおにぎりを囓った。たっぷりと量のあるおにぎりはそれぞれが二つずつ食べると十分にお腹がいっぱいになり、僕はとても満ち足りた気持ちになっていた。
小さな待合室は黄色っぽいぼんやりとした光に照らされていて、石油ストーブの方を向いた膝頭はぽかぽかと温かかった。僕たちはもう時間を気にすることなく、ほうじ茶を飲みながらゆっくりと好きなだけ話をした。ふたりとも家に帰ることは考えていなかった。口に出して確かめあったわけではないけれど、お互いがそう考えていることがちゃんと分かった。話したいことはお互いに尽きぬほどあったのだ。この一年の間に感じていた孤独を、僕たちは訴えあった。直接的な言葉は使わなかったけれど、お互いの不在がどれほど寂しかったか、今までどれほど会いたかったかを、僕たちは言外に相手に伝え続けた。
コンコンと、駅員が控えめな音で駅員室の硝子戸を叩いた時は、もう深夜の十二時を回っていた。
「そろそろ駅を閉めますよ。もう電車もないですし」
僕が改札を出る時に切符を渡した初老の駅員だった。怒られるのかと思ったが、彼は微笑していた。「なんだか楽しそうだから邪魔したくはなかったんだけど」と、その駅員はすこし訛りのある発音で優しく言った。
「決まりだからここは閉めなくちゃいけないんです。こんな雪ですし、お気をつけてお帰ください」
僕たちは駅員にお礼を言って、駅舎を出た。
岩舟の町はすっぽりと雪に埋まっていた。雪は変わらずにまっすぐ降り続けていたが、空も地上も雪に挟まれた深夜の世界は、不思議にもう寒くはなかった。僕たちはどこかうきうきした気持ちで新雪の上を並んで歩いた。僕の方が明里より何センチか背が高くなっていて、そんなことが僕をとても誇らしい気持ちにさせた。青白い街灯の光がスポットライトのように行く手の雪を丸く照らしていた。明里は嬉しそうにそこに向かって走り、僕は記憶よりもすっかり大人びた明里の背に見とれた。
明里の案内で、彼女が以前手紙に書いていた桜の樹を見に行くことにした。駅から十分ほど歩いただけなのに、民家のない広々とした畑地に出た。人工の光はもうどこにもなかったけれど、あたりは雪明かりでぼんやりと明るかった。風景全体が薄く微かに光っていた。まるで誰かの精巧で大切なつくりもののような、美しい風景だった。
その桜の樹はあぜ道の脇に一本だけぽつんと立っていた。太く高く、立派な樹だった。ふたりで桜の樹の下に立ち、空を見上げた。真っ暗な空から、折り重なった枝越しに雪が音もなく舞っていた。
「ねえ、まるで雪みたいだね」と明里が言った。
「そうだね」と、僕は答えた。満開の桜の舞う樹の下で、僕を見て微笑んでいる明里が見えたような気がした。
その夜、桜の樹の下で、僕は明里と初めてのキスをした。とても自然にそうなった。
唇と唇が触れたその瞬間、永遠とか心とか魂とかいうものがどこにあるのか、分かった気がした。十三年間生きてきたことのすべてを分かちあえたように僕は思い、それから、次の瞬間、たまらなく悲しくなった。
明里のそのぬくもりを、その魂を、どこに持っていけばいいのか、どのように扱えばいいのか、それが僕には分からなかったからだ。大切な明里のすべてがここにあるのに。それなのに、僕はそれをどうすれば良いのかが分からないのだ。僕たちはこの先もずっと一緒にいることはできないのだと、はっきりと分かった。僕たちの前には未だ巨大すぎる人生が、茫漠とした時間が、横たわっていた。
──でも、僕を瞬間捉えたその不安はやがて緩やかに溶けていき、僕の身体には明里の唇の感触だけが残っていた。明里の唇の柔らかさと温かさは、僕が知っているこの世の何にも似ていなかった。それは本当に特別なキスだった。今振り返ってみても、僕の人生には後にも先にも、あれほどまでに喜びと純粋さと切実さに満ちたキスはなかった。
僕たちはその夜、畑の脇にあった小さな納屋で過ごした。その木造の小屋の中には様々な農具がしまい込まれていて、僕と明里は棚にあった古い毛布を引っぱり出し、濡れたコートと靴を脱いで同じ毛布にくるまり、小さな声で長い時間話をした。コートの下の明里はセーラー服を着ていて、僕は学生服姿だった。制服を着ているのに僕たちは今ここで孤独ではない、それがむしょうに嬉しかった。
毛布の中で話しながら時折僕たちの肩は触れあい、明里の柔らかな髪は僕の頬や首筋を時々そっと撫でた。その感触と甘い匂いはそのたびに僕を昂ぶらせたけれど、僕には明里の体温を感じているだけでもう精一杯だった。明里の喋る声が僕の前髪を優しく揺らし、僕の息も明里の髪をそっと揺らせた。窓の外では次第に雲が薄くなり、時折薄い硝子窓から月明かりが差し込んで小屋の中を幻想的な光に満たした。話し続けるうちに、僕たちはいつのまにか眠っていた。
目を覚ましたのは朝の六時頃で、雪はいつのまにか止んでいた。僕たちはまだほのかに温かさの残るほうじ茶を飲み、コートを着て駅まで歩いた。空はすっかり晴れわたり、山の稜線から昇ったばかりの朝日が雪景色の田園をきらきらと輝かせている。眩しい光に溢れた世界だった。