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 土曜日の早朝のホームに、乗客は僕たちしかいなかった。オレンジと緑に塗り分けられた車輌全体に朝日を受け、両毛線が車体のあちこちを輝かせながらホームに入ってきた。ドアが開き、僕は電車に乗り込んで振り向き、目の前のホームに立っている明里を見た。白いコートの前ボタンをはずし、間からセーラー服を覗かせている、十三歳の明里。

 ──そうだ、と僕は気づく。僕たちはこれからひとりきりで、それぞれの場所に帰らなければならないのだ。

 さっきまであれほどたくさんの話をして、あれほどお互いを近くに感じていたのに、それは唐突な別れだった。こんな瞬間に何を言ったらよいのか分からずに僕は黙ったままで、先に言葉を発してくれたのは明里だった。

「あの、貴樹くん」

 僕は「え」、という返事とも息ともつかない声を出すことしかできない。

「貴樹くんは……」と明里はもう一度言って、すこしの間うつむいた。明里の後ろの雪原が朝日を浴びてまるで湖面のようにきらめいていて、そんな風景を背負った明里はなんて美しいのだろうと、僕はふと思う。明里は思い切ったように顔を上げ、まっすぐに僕を見て言葉を続けた。

「貴樹くんは、この先も大丈夫だと思う。ぜったい!」

「ありがとう……」と僕がやっとの思いで返事をした直後、電車のドアが閉まり始めた。──このままじゃだめだ。僕はもっとちゃんと、明里に言葉を伝えなければならない。閉じてしまったドア越しにも聞こえるように、僕は思い切り叫んだ。

「明里も元気で! 手紙書くよ! 電話も!」

 その瞬間、遠くで鋭く鳴く鳥の声が聞こえたような気がした。電車が走り始め、僕たちはお互いの右手をドアのガラス越しに重ねた。それはすぐに離れてしまったけれど、確かに一瞬だけ重なった。

 帰りの車輌の中で、僕はいつまでもドアの前に立ち続けていた。

 明里に長い手紙を書いていたこと、それをなくしてしまったことを、僕は明里に言わなかった。きっとまたいつか会えるはずだと思っていたからでもあるし、あのキスの前と後とでは、世界の何もかもが変わってしまったような気がしたからでもある。

 僕はドアの前に立ったまま、明里が触れたガラスにそっと右手をあてた。

「貴樹くんはこの先も大丈夫だと思う」と、明里は言った。

 何かを言いあてられたような──それが何かは自分でも分からないけれど──不思議な気持ちだった。同時に、いつかずっとずっと未来に、明里のこの言葉が自分にとってとても大切な力になるような予感がした。

 でもとにかく今は──と僕は思う。僕は彼女を守れるだけの力が欲しい。

 それだけを思いながら僕はいつまでも、窓の外の景色を見続けていた。

第二話「コスモナウト」

 水平線のちょっと上に乗っかっている朝日が、周囲の水面を眩しく輝かせている。空は文句のつけようもなくぱっきりと青く、肌に感じる水はあたたかく、体はとても軽い。私は今、ひとりだけで光の海に浮かんでいる。こんな時は自分がまるでとても特別な存在みたいに思えて、いつもほんのりと幸せな気持ちになってしまう。今現在、たくさんの問題を抱えているにもかかわらず。

 そもそもこんなふうに脳天気に、すぐに幸せだなーとか思ってしまうことが諸問題の原因なのかもしれないと考えながら、それでも私はうきうきと次の波に向かって腕を漕ぎだす。朝の海ってなんて綺麗なんだろう。徐々にせり上がる波のなめらかな動き、言葉では説明できない複雑な色合い。それにうっとりと見とれながら、私は自分の体を乗せたボードを波のフェイスに滑り込ませようとする。体が持ち上げられる浮力を感じ体を起こそうとした直後、しかし私はバランスを崩して波の下に沈み込んでしまう。また失敗。鼻からすこしだけ吸い込んでしまった海水で、目の奥がつんとする。

 問題その一。私はこの半年間、一度も波の上に立てていない。

 砂浜から一段上がったところにある駐車場(というか雑草の茂った単なる広場)の奥、背の高い雑草の影で、私は肌にぴったりとしたラッシュガードを脱ぎ水着を脱ぎ、裸になってホースの水道水を頭からかぶり、さっと体を拭いて制服に着替える。周囲には誰もいない。ほてった体にあたる強い海風が気持ちいい。肩に届かないくらいの私の短い髪はあっという間に乾いてしまう。白いセーラーの上着に、朝日が雑草の影をくっきりと映している。海はいつでも大好きだけれど、この季節の朝はほんとうに特別に好き。これが冬だったら、海から上がって着替えるこの瞬間がいちばん辛いのだ。

 乾いた唇にリップクリームを塗っている時にお姉ちゃんのステップワゴンがやってくる音が聞こえて、私はサーフボードとスポーツバッグを抱えて車に向かう。赤いジャージ姿のお姉ちゃんが運転席の窓を開けて私に話しかける。

「花か苗なえ、どうだった?」

 私のお姉ちゃんは綺麗だ。髪がまっすぐに長くて、落ち着いていて、頭が良くて、高校の先生をやっている。八歳上の姉のことを、しかし昔はあまり好きではなかった。理由を自分なりに内省・分析するに、どちらかといえばぼんやりとした平凡な私にとって、華やかな姉は要するにコンプレックスの対象だったのだと思う。でも今は好き。お姉ちゃんが大学を卒業してこの島に帰ってきた頃に、私はいつの間にか素直に姉を尊敬できるようになっていた。ダサいジャージなんか着ないで、もっと可愛い服を着ればもっともっと美人に見えるのに。でもあんまり綺麗すぎると、この小さな島では目立ちすぎちゃうのかもしれない。

「今日もダメ。風はずっとオフショアだったんだけど」サーフボードをトランクにしまいながら私は答える。

「まあゆっくりやんなさい。放課後も来るの?」

「うん、来たい。お姉ちゃんは平気?」

「いいよ。でも勉強もちゃんとやんなさいよ」

「はーい!」

 誤魔化すように大きく返事をしつつ、私は駐車場の隅に停めてあるバイクに向かう。学校指定のホンダのスーパーカブは年季の入ったお姉ちゃんからのお下がりだ。電車がなくバスもほとんど走らないこの島では、高校生はたいてい十六歳になってすぐバイクの免許を取る。バイクは便利だし島を走るのは気持ちいいけれど、でもサーフボードは運べないから、海に行く時はいつもお姉ちゃんが車を出してくれる。私たちはこれからそろって登校するのだ。私は授業を受けるために、お姉ちゃんは授業を行うために。エンジンのキーを回す時に腕時計を確認する。七時四十五分。うん、大丈夫。きっと彼はまだ練習中だ。私は姉の車に続いてカブを走らせ、海岸を後にする。