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「狐のお嫁入りみたいだね」

「ほんとうですわ」

「この部屋で四年暮すのかい」

「でも、もう半年すんだわ。すぐよ」

下の人達の寝息が聞えて来るようだし、話の継穂がないので、島村はそそくさと立ち上った。

駒子は戸をしめながら、首を突き出して空を仰ぐと、

「雪催いね。もう紅葉もおしまいになるわ」と、また表に出て、

「ここらあたりは山家ゆえ、紅葉のあるのに雪が降る」

「じゃあ、お休み」

「送って行くわ。宿の玄関までよ」

ところが島村といっしょに宿へ入って来て、

「お休みなさいね」と、どこかへ消えて行ったのに、しばらくするとコップに二杯なみなみと冷酒をついで、彼の部屋へ入って来るなり激しく言った。

「さあ、飲みなさい、飲むのよ」

「宿で寝ちゃってるのに、どこから持って来た」

「ううん、あるとこは分ってる」

駒子は樽から出す時にも飲んで来たとみえ、さっきの酔いが戻ったらしく眼を細めてコップから酒のこぼれるのを見据えながら、

「でも、暗がりでひっかけるとおいしくないわ」

突きつけられたコップの冷酒を島村は無造作に飲んだ。

こればかりの酒で酔うはずはないのに、表を歩いて体が冷えていたせいか、急に胸が悪くなって頭へ来た。顔の青ざめるのが自分に分るようで、目をつぶって横たわると、駒子はあわてて介抱し出したが、やがて島村は女の熱いからだにすっかり幼く安心してしまった。

駒子はなにかきまり悪そうに、例えばまだ子供を産んだことのない娘が人の子を抱くようなしぐさになって来た。首を擡げて子供の眠るのを見ているという風だった。

島村がしばらくしてぽつりと言った。

「君はいい子だね」

「どうして? どこがいいの」

「いい子だよ」

「そう? いやな人ね。なにを言ってるの。しっかりしてちょうだい」と、駒子はそっぽを向いて島村を揺すぶりながら、切れ切れに叩くように言うと、じっと黙っていた。

そして一人で含み笑いして、

「よくないわ。つらいから帰ってちょうだい。もう着る着物がないの。あんたのところへ来るたびに、お座敷着を変えたいけれど、すっかり種切れで、これお友達の借着なのよ。悪い子でしょう?」

島村は言葉も出なかった。

「そんなの、どこがいい子?」と、駒子は少し声を潤ませて、

「初めて会った時、あんたなんていやな人だろうと思ったわ。あんな失礼なことを言う人ないわ。ほんとうにいやあな気がした」

島村はうなずいた。

「あら。それを私今まで黙ってたの。分る? 女にこんなこと言わせるようになったらおしまいじゃないの」

「いいよ」

「そう?」と、駒子は自分を振り返るように、長いこと静かにしていた。その一人の女の生きる感じが温かく島村に伝わって来た。

「君はいい女だね」

「どういいの」

「いい女だよ」

「おかしなひと」と、肩がくすぐったそうに顔を隠したが、なんと思ったか、突然むくっと片肘立てて首を上げると、

「それどういう意味? ねえ、なんのこと?」

島村は驚いて駒子を見た。

「言ってちょうだい。それで通ってらしたの? あんた私を笑ってたのね。やっぱり笑ってらしたのね」

真赤になって島村を睨みつけながら詰問するうちに、駒子の肩は激しい怒りに顫えて来て、すうっと青ざめると、涙をぽろぽろ落した。

「くやしい、ああっ、くやしい」と、ごろごろ転がり出て、うしろ向きに坐った。

島村は駒子の聞きちがいに思いあたると、はっと胸を突かれたけれど、目を閉じて黙っていた。

「悲しいわ」

駒子はひとりごとのように呟いて、胴を円く縮める形に突っ伏した。

そうして泣きくたびれたか、ぷすりぷすりと銀の簪を畳に突き刺していたが、不意に部屋を出て行ってしまった。

島村は後を追うことが出来なかった。駒子に言われてみれば、十分に心疚しいものがあった。

しかしすぐに駒子は足音を忍ばせて戻ったらしく、障子の外から上ずった声で呼んだ。

「ねえ、お湯にいらっしゃいません?」

「ああ」

「御免なさいね。私考え直して来たの」

廊下に隠れて立ったまま、部屋に入って来そうもないので、島村が手拭を持って出て行くと、駒子は目を合わせるのを避けて、少しうつ向きながら先きに立った。罪をあばかれて曳かれて行く人に似た姿であったが、湯で体が温まる頃から変にいたいたしいほどはしゃぎ出して、眠るどころでなかった。

その次の朝、島村は謡の声で目が覚めた。

しばらく静かに謡を聞いていると、駒子が鏡台の前から振り返って、にっと微笑みながら、

「梅の間のお客さま。昨夜宴会の後で呼ばれたでしょう」

「謡の会の団体旅行かね」

「ええ」

「雪だろう?」

「ええ」と、駒子は立ち上って、さっと障子をあけて見せた。

「もう紅葉もおしまいね」

窓で区切られた灰色の空から大きい牡丹雪がほうっとこちらへ浮び流れて来る。なんだか静かな嘘のようだった。島村は寝足りぬ虚しさで眺めていた。

謡の人々は鼓も打っていた。

島村は去年の暮のあの朝雪の鏡を思い出して鏡台の方を見ると、鏡のなかでは牡丹雪の冷たい花びらがなお大きく浮び、襟を開いて首を拭いている駒子のまわりに、白い線を漂わした。

駒子の肌は洗い立てのように清潔で、島村のふとした言葉もあんな風に聞きちがえねばならぬ女とはとうてい思えないところに、かえって逆らい難い悲しみがあるかと見えた。

紅葉の銹色が日ごとに暗くなっていた遠い山は、初雪であざやかに生きかえった。

薄く雪をつけた杉林は、その杉の一つ一つがくっきりと目立って、鋭く天を指しながら地の雪に立った。

雪のなかで糸をつくり、雪のなかで織り、雪の水に洗い、雪の上に晒す。績み始めてから織り終るまで、すべては雪のなかであった。雪ありて縮あり、雪は縮の親というべしと、昔の人も本に書いている。

村里の女達の長い雪ごもりのあいだの手仕事、この雪国の麻の縮は島村も古着屋であさって夏衣にしていたものだ。踊の方の縁故から能衣裳の古物などを扱う店も知っているので、筋のいい縮が出たらいつでも見せてほしいと頼んであるほど、この縮を好んで、一重の襦袢にもした。

雪がこいの簾をあけて、雪解の春のころ、昔は縮の初市が立ったという。はるばる縮を買いに来る三都の呉服問屋の定宿さえあったし、娘達が半年の丹精で織り上げたのもこの初市のためだから、遠近の村里の男女が寄り集まって来て、見世物や物売の店も並び、町の祭のように賑わったという。縮には織子の名と所とを書いた紙札をつけて、その出来栄えを一番二番という風に品定めした。嫁選びにもなった。子供のうちに織り習って、そうして十五、六から二十四、五までの女の若さでなければ、品のいい縮は出来なかった。年を取っては機面のつやが失われた。娘達は指折りの織子の数に入ろうとしてわざを磨いただろうし、旧暦の十月から糸を績み始めて明る年の二月半ばに晒し終るという風に、ほかにすることもない雪ごもりの月日の手仕事だから念を入れ、製品には愛着もこもっただろう。

島村が着る縮のうちにも、明治の初めから江戸の末の娘が織ったものはあるかもしれなかった。

自分の縮を島村は今でも「雪晒し」に出す。誰が肌につけたかしれない古着を、毎年産地へ晒しに送るなど厄介だけれども、昔の娘の雪ごもりの丹精を思うと、やはりその織子の土地でほんとうの晒し方をしてやりたいのだった。深い雪の上に晒した白麻に朝日が照って、雪か布かが紅に染まるありさまを考えるだけでも、夏のよごれが取れそうだし、わが身をさらされるように気持よかった。もっとも東京の古着屋が扱ってくれるので、昔通りの晒し方が今に伝わっているのかどうか、島村は知らない。

晒屋は昔からあった。織子が銘々の家で晒すということは少く、たいがい晒屋に出した。白縮は織りおろしてから晒し、色のある縮は糸につくったのを拐にかけて晒す。白縮は雪へじかにのばして晒す。旧の一月から二月にかけて晒すので、田や畑を埋めつくした雪の上を晒場にすることもあるという。

布にしろ糸にしろ、夜通し灰汁に浸しておいたのを翌る朝幾度も水で洗っては絞り上げて晒す。これを幾日も繰り返すのだった。そうして白縮をいよいよ晒し終ろうとするところへ朝日が出てあかあかとさす景色はたとえるものがなく、暖国の人に見せたいと、昔の人も書いている。また縮を晒し終るということは雪国が春の近いしらせであったろう。

縮の産地はこの温泉場に近い。山峡の少しずつひらけてゆく川下の野がそれで、島村の部屋からも見えていそうだった。昔縮の市が立ったという町にはみな汽車の駅が出来て、今も機業地として知られている。

しかし島村は縮を着る真夏にも縮を織る真冬にも、この温泉場に来たことがないので、駒子に縮の話をしてみる折はなかった。昔の民芸のあとをたずねてみるという柄でもなかった。

ところが葉子が湯殿で歌っていた歌を聞いて、この娘も昔生れていたら、糸車や機にかかって、あんな風に歌ったのかもしれないと、ふと思われた。葉子の歌はいかにもそういう声だった。

毛よりも細い麻糸は天然の雪の湿気がないとあつかいにくく、陰冷の季節がよいのだそうで、寒中に織った麻が暑中に着て肌に涼しいのは陰陽の自然だという言い方を昔の人はしている。島村にまつわりついて来る駒子にも、なにか根の涼しさがあるようだった。そのためよけい駒子のみうちのあついひとところが島村にあわれだった。

けれどもこんな愛着は一枚の縮ほどの確かな形を残しもしないだろう。着る布は工芸品のうちで寿命の短い方にしても、大切にあつかえば五十年からもっと前の縮が色も褪せないで着られるが、こうした人間の身の添い馴れは縮ほどの寿命もないなどとぼんやり考えていると、ほかの男の子供を産んで母親になった駒子の姿が不意に浮んで来たりして、島村ははっとあたりを見まわした。疲れているのかと思った。

妻子のうちへ帰るのも忘れたような長逗留だった。離れられないからでも別れともないからでもないが、駒子のしげしげ会いに来るのを待つ癖になってしまっていた。そうして駒子がせつなく迫って来れば来るほど、島村は自分が生きていないかのような苛責がつのった。いわば自分のさびしさを見ながら、ただじっとたたずんでいるのだった。駒子が自分のなかにはまりこんで来るのが、島村は不可解だった。駒子のすべてが島村に通じて来るのに、島村のなにも駒子には通じていそうにない。駒子が虚しい壁に突きあたる木霊に似た音を、島村は自分の胸の底に雪が降りつむように聞いた。このような島村のわがままはいつまでも続けられるものではなかった。

こんど帰ったらもうかりそめにこの温泉へは来れないだろうという気がして、島村は雪の季節が近づく火鉢によりかかっていると、宿の主人が特に出してくれた京出来の古い鉄瓶で、やわらかい松風の音がしていた。銀の花鳥が器用にちりばめてあった。松風の音は二つ重なって、近くのと遠くのとに聞きわけられたが、その遠くの松風のまた少し向うに小さな鈴がかすかに鳴りつづけているようだった。島村は鉄瓶に耳を寄せてその鈴の音を聞いた。鈴の鳴りしきるあたりの遠くに鈴の音ほど小刻みに歩いて来る駒子の小さい足が、ふと島村に見えた。島村は驚いて、もはやここを去らねばならぬと心立った。

そこで島村は縮の産地へ行ってみることを思いついた。この温泉場から離れるはずみをつけるつもりもあった。

しかし川下に幾つもある町のどれへ行けばよいのか、島村はわからなかった。現在機業地に発展している大きい町が見たいというのではないので、島村はむしろさびしそうな駅に下りた。しばらく歩くと昔の宿場らしい町通に出た。

家々の庇を長く張り出して、その端を支える柱が道路に立ち並んでいた。江戸の町で店下と言ったのに似ているが、この国では昔から雁木というらしく、雪の深いあいだの往来になるわけだった。片側は軒を揃えて、この庇が続いている。

隣りから隣りへ連なっているから、屋根の雪は道の真中へおろすより捨場がない。実際は大屋根から道の雪の堤へ投げ上げるのだ。向う側へ渡るのには雪の堤をところどころくりぬいてトンネルをつくる。胎内くぐりとこの地方ではいうらしい。

同じ雪国のうちでも駒子のいる温泉村などは軒が続いていないから、島村はこの町で初めて雁木を見るわけだった。もの珍らしさにちょっとそのなかを歩いてみた。古びた庇の陰は暗かった。傾いた柱の根元が朽ちていたりした。先祖代々雪に埋もれた鬱陶しい家のなかを覗いてゆくような気がした。

雪の底で手仕事に根をつめた織子達の暮しは、その製作品の縮のように爽かで明るいものではなかった。そう思われるに十分な古町の印象だった。縮のことを書いた昔の本にも唐の秦韜玉の詩などが引かれているが、機織女を抱えてまで織らせる家がなかったのは、一反の縮を織るのにずいぶん手間がかかって、銭勘定では合わないからだという。

そんな辛苦をした無名の工人はとっくに死んで、その美しい縮だけが残っている。夏に爽涼な肌触りで島村らの贅沢な着物となっている。そう不思議でもないことが島村はふと不思議であった。一心こめた愛の所行はいつかどこかで人を鞭打つものだろうか。島村は雁木の下から道へ出た。

宿場の街道筋らしく真直に長い町通だった。温泉村から続いている古い街道だろう。板葺きの屋根の算木や添石も温泉町と変りがなかった。

庇の柱が薄い影を落していた。いつのまにか夕暮近くだった。

なにも見るものがないので、島村はまた汽車に乗って、もう一つの町に下りてみた。前の町と似たものだった。やはりただぶらぶら歩いて、寒さしのぎにうどんを一杯すすっただけだった。

うどん屋は川岸で、これも温泉場から流れて来る川だろう。尼僧が二人づれ三人づれと前後して橋を渡って行くのが見えた。わらじ履きで、なかには饅頭笠を背負ったのもあって、托鉢の帰りのようだった。烏が塒に急ぐ感じだった。

「尼さんがだいぶ通るね?」と、島村はうどん屋の女にたずねてみた。

「はい、この奥に尼寺があるんですよ。そのうち雪になると、山から出歩くのが難渋になるんでしょう」

橋の向うに暮れてゆく山はもう白かった。

この国では木の葉が落ちて風が冷たくなるころ、寒々と曇り日が続く。雪催いである。遠近の高い山が白くなる。これを岳廻りという。また海のあるところは海が鳴り、山の深いところは山が鳴る。遠雷のようである。これを胴鳴りという。岳廻りを見、胴鳴りを聞いて、雪が遠くないことを知る。昔の本にそう書かれているのを島村は思い出した。

島村が朝寝の床で紅葉見の客の謡を聞いた日に初雪は降った。もう今年も海や山は鳴ったのだろうか。島村は一人旅の温泉で駒子と会いつづけるうちに聴覚などが妙に鋭くなって来ているのか、海や山の鳴る音を思ってみるだけで、その遠鳴が耳の底を通るようだった。

「尼さん達もこれから冬籠りだね。何人くらいいるの」

「さあ。大勢でしょうよ」

「尼さんばかりが寄って、幾月も雪のなかでなにをしてるんだろうね。昔この辺で織った縮でも、尼寺で織ったらどうかな」

物好きな島村の言葉に、うどん屋の女は薄笑いしただけだった。

島村は駅で帰りの汽車を二時間近く待った。弱い光の日が落ちてからは寒気が星を磨き出すように冴えて来た。足が冷えた。

なにをしに行ったのかわからずに島村は温泉場に戻った。車がいつもの踏切を越えて鎮守の杉林の横まで来ると、目の前に明りの出た家が一軒あって、島村はほっとしたが、それは小料理屋の菊村で、門口に芸者が三、四人立話していた。

駒子もいるなと思う間もなく駒子ばかりが見えた。

車の速力が急に落ちた。島村と駒子とのことをもう知っている運転手はなんとなく徐行したらしい。

ふと島村は駒子との逆の方のうしろを振り向いた。乗って来た自動車のわだちのあとが雪の上にはっきり残っていて、星明りに思いがけなく遠くまで見えた。

車が駒子の前に来た。駒子はふっと目をつぶったかと思うと、ぱっと車に飛びついた。車は止まらないでそのまま静かに坂を登った。駒子は扉の外の足場に身をかがめて、扉の把手につかまっていた。

飛びかかって吸いついたような勢いでありながら、島村はふわりと温かいものに寄り添われたようで、駒子のしていることに不自然も危険も感じなかった。駒子は窓を抱くように片腕をあげた。袖口が辷って長襦袢の色が厚いガラス越しにこぼれ、寒さでこわばった島村の瞼にしみた。

駒子は窓ガラスに額を押しつけながら、

「どこへ行った? ねえ、どこへ行った?」と、甲高く呼んだ。