「危いじゃないか。むちゃをするね」と、島村も声高に答えたが、甘い遊びだった。
駒子が扉をあけて横倒れにはいって来た。しかしその時車はもう止まっているのだった。山の裾に来ていた。
「ねえ、どこへいらしたの?」
「うん、まあ」
「どこ?」
「どこってこともないが」
駒子の裾を直す手つきの芸者風なのが、島村にふと珍らしいもののように見えたりした。
運転手はじっとしていた。道の行きづまりで止まっている車に、こうして乗っているのはおかしいと島村は気がつくと、
「おりましょう」と、島村の膝の上に駒子が手を重ねて来たが、
「まあ、冷たい。こんなよ。どうして私を連れて行かなかったの?」
「そうだったね」
「なによ? おかしなひと」
駒子は楽しげに笑って、急な石段の小路を登った。
「あんたの出ていらっしゃるところ、私見てたのよ。二時か、三時だったわね?」
「うん」
「車の音がするから出てみたの。表に出てみたのよ。あんた、うしろを見なかったでしょう?」
「ええ?」
「見なかったわよ。どうして振り返ってみなかったの?」
島村はおどろいた。
「あんた、私の見送ってたのを知らないじゃないの?」
「知らなかったね」
「そうれごらんなさい」と、駒子はやはり楽しそうに含み笑いした。そして肩を寄せて来た。
「どうして私を連れて行かないの? 冷たくなって来て、いやよ」
突然擦半鐘が鳴り出した。
二人は振り向くなり、
「火事、火事よ!」
「火事だ」
火の手が下の村の真中にあがっていた。
駒子はなにか二声三声叫んで島村の手をつかんだ。
黒い煙の巻きのぼるなかに炎の舌が見えかくれした。その火は横に這って軒を舐め廻っているようだった。
「どこだ、君が元いたお師匠さんの家、近いんじゃないか」
「ちがう」
「どのへんだ」
「もっと上よ。停車場寄りよ」
炎が屋根を抜いて立ちあがった。
「あら、繭倉だわ。繭倉だわ。あら、あら、繭倉が焼けてるのよ」と、駒子は言い続けて島村の肩に頬を押しつけた。
「繭倉よ、繭倉よ」
火は燃えさかって来るばかりだが、高みから大きい星空の下に見下すと、おもちゃの火事のように静かだった。そのくせすさまじい炎の音が聞えそうな恐ろしさは伝わって来た。島村は駒子を抱いた。
「こわいことないじゃないか」
「いや、いや、いや」と、駒子はかぶりを振って泣き出した。その顔が島村の掌にいつもより小さく感じられた。固いこめかみが顫えていた。
火を見て泣き出したのだが、なにを泣くのかと島村はいぶかりもしないで抱いていた。
駒子は不意に泣きやむと顔を離して、
「あら、そうだった、繭倉に映画があるのよ、今夜だわ。人がいっぱいはいってるのよ、あんた……」
「そりゃ大変だ」
「怪我人が出てよ。焼け死ぬわ」
二人はあわてて石段を駈け登った。上の方で騒ぐ声が聞えるからだ。見上げると高い宿屋の二階三階も、たいていの部屋が障子をあけた明りの廊下に人が出て火事を見ていた。庭のはずれに並んだ菊の末枯が宿の燈か星明りかで輪郭を浮べ、ふと火事が映っていると思わせたが、その菊のうしろにも人が立っていた。二人の顔の上へ宿の番頭などが三、四人ころぶように下りて来た。駒子は声を張りあげて、
「あんた、繭倉あ?」
「繭倉だあ」
「怪我人は? 怪我人はないの?」
「どんどん助け出してるんだあ。活動のフィルムから、ぼうんといっぺんに燃えついて、火の廻りが早いや。電話で聞いたんだ。あれ見ろい」と、番頭は出会いがしらに片腕を振り上げて行った。
「子供なんざあ、二階からぼんぼん投げおろしてるんだってさ」
「まあ。どうしよう」と、駒子は番頭を追うように石段を下りた。後から下りて来る人々が駈け抜けて行った。駒子も誘われて走り出していた。島村も追っかけた。
石段の下では火事が人家にかくれて焔の頭しか見えないところへ、擦半鐘が鳴り渡るので、なお不安が増して走った。
「雪が凍みてるから気をつけてね。滑る」と、駒子は島村を振り向いたが、その拍子に立ち止まって、
「でも、そうよ。あんたはいいのよ、いらっしゃらなくて。私は村の人が心配よ」
言われてみればそうだった。島村は拍子抜けがすると足もとに線路が見えた。踏切の前まで来ていた。
「天の河。きれいねえ」
駒子はつぶやくと、その空を見上げたまま、また走り出した。
ああ、天の河と、島村も振り仰いだとたんに、天の河のなかへ体がふうと浮き上ってゆくようだった。天の河の明るさが島村を掬い上げそうに近かった。旅の芭蕉が荒海の上に見たのは、このようにあざやかな天の河の大きさであったか。裸の天の河は夜の大地を素肌で巻こうとして、すぐそこに降りて来ている。恐ろしいなまめかしさだ。島村は自分の小さい影が地上から逆に天の河へ写っていそうに感じた。天の河にいっぱいの星が一つ一つ見えるばかりでなく、ところどころ光雲の銀砂子も一粒一粒見えるほど澄み渡り、しかも天の河の底なしの深さが視線を吸い込んで行った。
「おうい。おうい」
島村は駒子を呼んだ。
「ほうい。来てちょうだあい」
天の河が垂れさがる暗い山の方へ駒子は走っていた。
褄を取っているらしく、その腕を振るたびに赤い裾が多く出たり縮まったりした。星明りの雪の上に赤い色だとわかった。
島村は一散に追っかけた。
駒子は足をゆるめると、褄をはなして島村の手を取った。
「行くの、あんたも?」
「うん」
「物好きねえ」と、雪の上に落ちている裾をつまみ上げて、
「私が笑われるから、帰ってちょうだい」
「うん、そこまで」
「悪いじゃないの? 火事場まであんたを連れて行くなんて、村の人に悪いわ」
島村はうなずいて止まったのに、駒子が島村の袖に軽くつかまったままゆっくり歩き出した。
「どこかで待っててちょうだい。すぐ戻って来ます。どこがいい」
「どこでもいいよ」
「そうね、もう少し向う」と、駒子は島村の顔をのぞきこんだが、急にかぶりを振って、
「いやだ、もう」
どんと駒子は体をぶっつけた。島村は一足よろけた。道端の薄雪のなかに葱の列が立っていた。
「なさけないわ」
そして駒子は早口に挑みかかった。
「ねえ、あんた、私をいい女だって言ったわね。行っちゃう人が、なぜそんなこと言って、教えとくの?」
駒子が簪をぷすりぷすり畳に突き刺していたのを、島村は思い出した。
「泣いたわ。うちへ帰ってからも泣いたわ。あんたと離れるのこわいわ。だけどもう早く行っちゃいなさい。言われて泣いたこと、私忘れないから」
駒子の聞きちがえで、かえって女の体の底まで食い入った言葉を思うと、島村は未練に絞めつけられるようだったが、俄かに火事場の人声が聞えて来た。新しい火の手が火の子を噴き上げた。
「あら、また、あんなに燃えて、あんなに火が出たわ」
二人はほっと救われたように走り出した。
駒子はよく走った。凍りついた雪を下駄で掠めて飛ぶかと見え、腕も前後に振るというよりも両脇に張った形だった。胸のあたりに固く力をこめた形で、案外小柄だと島村は思った。小太りの島村は駒子の姿を見ながら走っているので、なお早く苦しくなった。しかし、駒子も急に息切れして、島村によろけかかった。
「目玉が寒くて、涙が出るわ」
頬がほてって目ばかり冷たい。島村も瞼が濡れた。瞬くと天の河が目に満ちた。島村はその涙が落ちそうなのをこらえて、
「毎晩、こんな天の河かい」
「天の河? きれいね、毎晩じゃないでしょう。よく晴れてるわ」
天の河は二人が走って来たうしろから前へ流れおりて、駒子の顔は天の河のなかで照らされるように見えた。
しかし、細く高い鼻の形も明らかでないし、小さい唇の色も消えていた。空をあふれて横切る明りの層が、こんなに暗いのかと島村は信じられなかった。薄月夜よりも淡い星明りなのだろうが、どんな満月の空よりも天の河は明るく、地上になんの影もないほのかさに駒子の顔が古い面のように浮んで、女の匂いのすることが不思議だった。
見上げていると天の河はまたこの大地を抱こうとしておりて来ると思える。
大きい極光のようでもある天の河は島村の身を浸して流れて、地の果てに立っているかのようにも感じさせた。しいんと冷える寂しさでありながら、なにかなまめかしい驚きでもあった。
「あんたが行ったら、私は真面目に暮すの」と、駒子は言って歩き出すと、ゆるんだ髷に手をやった。五、六歩行って振り返った。
「どうしたの。いやよ」
島村は立ったままでいた。
「そう? 待っててね。後でいっしょにお部屋へ行かせて」
駒子はちょっと左手を上げてから走った。後姿が暗い山の底に吸われて行くようだった。天の河はその山波の線で切れるところに裾をひらき、また逆にそこから花やかな大きさで天へひろがってゆくようだったから、山はなお暗く沈んでいた。
島村が歩き出すと間もなく駒子の姿は街道の人家でかくれた。
「やっしょ、やっしょ、やっしょ」と掛声が聞えて、ポンプをひいて行くのが街道に見えた。街道は後から後から人が走っているらしい。島村も急いで街道に出た。二人が来た道は丁字形に街道へ突きあたるのだった。
またポンプが来た。島村はやり過して、その後について走った。
古い手押型の木のポンプだった。長い綱を先引きする一隊のほかに、ポンプのまわりも消防が取り巻いている、それがおかしいほどポンプは小さかった。
そのポンプの来るのを、駒子も道端によけていた。島村を見つけていっしょに走った。ポンプをよけて道端に立った人々が、ポンプに吸い寄せられてゆくように後を追った。今は二人も火事場へ駈けつける人の群に過ぎなかった。
「いらしたの? 物好きに」
「うん。心細いポンプだね、明治前だ」
「そうよ。ころばないでね」
「滑るね」
「そうよ、これから、地吹雪が一晩中荒れる時に、あんた一度、来てごらんなさい。来れないでしょう。雉や兎が、人家のなかへ逃げ込んで来るわ」などと駒子が言っても、消防の掛声や人々の足音に調子づいて、明るくはずんだ声だった。島村も身が軽かった。
焔の音が聞えた。眼の前に火の手が立った。駒子は島村の肘をつかんだ。街道の低い黒い屋根が火明りでほうっと呼吸するように浮き出して、また薄れた。足もとの道にポンプの水が流れて来た。島村と駒子も人垣に自然立ちどまった。火事の焦臭さに繭を煮るような臭いがまじっていた。
映画のフィルムから火が出たとか、見物の子供を二階からぽんぽん投げおろしたとか、怪我人はなかったとか、今は村の繭も米も入っていなくてよかったとか、人々はあちこちで似たことを声高にしゃべり合っているのに、みな火に向って無言でいるような、遠近の中心の抜けたような、一つの静かさが火事場を統一していた。火の音とポンプの音とを聞いているという風だった。
時々、おくれて駈けつける村人があって、肉親の名を呼びまわる。答える者があって、喜んで叫び合う。それらの声だけは生き生きと通った。擦半鐘はもう鳴りやんでいた。
人目もあると思って、島村は駒子からそっと離れると、ひとかたまりの子供のうしろに立った。火照りで子供達は後ずさりした。足もとの雪も少しゆるんで来るらしかった。人垣の前の雪は火と水で溶け、乱れた足形にぬかるんでいた。
そこは繭倉の横の畑地で、島村達といっしょに駈けつけた村人は大方そこにはいったのだった。
火は映写機を据えた入口の方から出たらしく、繭倉の半ばほどはもう屋根も壁も焼け落ちていたが、柱や梁などの骨組はいぶりながら立っていた。板葺板壁に板の床だけでがらんどうだから、屋内にはそう煙も巻いていないし、たっぷり水を浴びた屋根も燃えていそうには見えないのに、火移りは止まらぬらしく、思いがけないところから焔が出た。三台のポンプの水があわてて消しに向うと、どっと火の子を噴き上げて黒煙が立った。
その火の子は天の河のなかにひろがり散って、島村はまた天の河へ掬い上げられてゆくようだった。煙が天の河を流れるのと逆に天の河がさあっと流れ下りて来た。屋根を外れたポンプの水先が揺れて、水煙となって薄白いのも、天の河の光が映るかのようだった。
いつのまに寄って来たのか、駒子が島村の手を握った。島村は振り向いたが黙っていた。駒子は火の方を見たままで、少し上気した生真面目な顔に焔の呼吸がゆらめいていた。島村の胸に激しいものがこみ上げて来た。駒子の髷はゆるんで、咽は伸びている。そこらにつと手をやりそうになって島村は指先がふるえた。島村の手も温まっていたが、駒子の手はもっと熱かった。なぜか島村は別離が迫っているように感じた。
入口の方の柱かなにかからまた火が起きて燃え出し、ポンプの水が一筋消しに向うと、棟や梁がじゅうじゅう湯気を立てて傾きかかった。
あっと人垣が息を呑んで、女の体が落ちるのを見た。
繭倉は芝居などにも使えるように、形ばかりの二階の客席がつけてある。二階と言っても低いその二階から落ちたので、地上までほんの瞬間のはずだが、落ちる姿をはっきり目で追えたほどの時間があったかのように見えた。人形じみた、不思議な落ち方のせいかもしれない。一目で失心していると分った。下に落ちても音はしなかった。水のかかった場所で、埃も立たなかった。新しく燃え移ってゆく火と古い燃えかすに起きる火との中程に落ちたのだった。
古い燃えかすの火に向って、ポンプが一台斜めに弓形の水を立てていたが、その前にふっと女の体が浮んだ。そういう落ち方だった。女の体は空中で水平だった。島村はどきっとしたけれども、とっさに危険も恐怖も感じなかった。非現実的な世界の幻影のようだった。硬直していた体が空中に放り落されて柔軟になり、しかし、人形じみた無抵抗さ、命の通っていない自由さで、生も死も休止したような姿だった。島村に閃いた不安と言えば、水平に伸びた女の体で頭の方が下になりはしないか、腰か膝が曲りはしないかということだった。そうなりそうなけはいは見えたが、水平のまま落ちた。
「ああっ」
駒子が鋭く叫んで両の眼をおさえた。島村は瞬きもせずに見ていた。
落ちた女が葉子だと、島村も分ったのはいつのことだったろう。人垣があっと息を呑んだのも駒子がああっと叫んだのも、実は同じ瞬間のようだった。葉子の腓が地上で痙攣したのも、同じ瞬間のようだった。
駒子の叫びは島村の身うちを貫いた。葉子の腓が痙攣するのといっしょに、島村の足先まで冷たい痙攣が走った。なにかせつない苦痛と悲哀とに打たれて、動悸が激しかった。
葉子の痙攣は目にとまらぬほどかすかなもので、すぐに止んだ。
その痙攣よりも先きに、島村は葉子の顔と赤い矢絣の着物を見ていた。葉子は仰向けに落ちた。片膝の少し上まで裾がまくれていた。地上にぶっつかっても、腓が痙攣しただけで、失心したままらしかった。島村はやはりなぜか死は感じなかったが、葉子の内生命が変形する、その移り目のようなものを感じた。
葉子を落した二階桟敷から骨組の木が二、三本傾いて来て、葉子の顔の上で燃え出した。葉子はあの刺すように美しい目をつぶっていた。あごを突き出して、首の線が伸びていた。火明りが青白い顔の上を揺れ通った。
幾年か前、島村がこの温泉場へ駒子に会いに来る汽車のなかで、葉子の顔のただなかに野山のともし火がともった時のさまをはっと思い出して、島村はまた胸が顫えた。一瞬に駒子との年月が照し出されたようだった。なにかせつない苦痛と悲哀もここにあった。
駒子が島村の傍から飛び出していた。駒子が叫んで眼をおさえたのと、ほとんど同じ瞬間のようだった。人垣があっと息を呑んだままの時だった。
水を浴びて黒い焼屑が落ち散らばったなかに、駒子は芸者の長い裾を曳いてよろけた。葉子を胸に抱えて戻ろうとした。その必死に踏ん張った顔の下に、葉子の昇天しそうにうつろな顔が垂れていた。駒子は自分の犠牲か刑罰かを抱いているように見えた。
人垣が口々に声をあげて崩れ出し、どっと二人を取りかこんだ。
「どいて。どいてちょうだい」
駒子の叫びが島村に聞えた。
「この子、気がちがうわ。気がちがうわ」
そう言う声が物狂わしい駒子に島村は近づこうとして、葉子を駒子から抱き取ろうとする男達に押されてよろめいた。踏みこたえて目を上げたとたん、さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった。