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島村の掌のありがたいふくらみはだんだん熱くなって来た。

「ああ、安心した。安心したよ」と、彼はなごやかに言って、母のようなものさえ感じた。

女はまた急に苦しみ出して、身をもがいて立ち上ると、部屋の向うの隅に突っ伏した。

「いけない、いけない。帰る、帰る」

「歩けるもんか。大雨だよ」

「跣足で帰る。這って帰る」

「危いよ。帰るなら送ってやるよ」

宿は丘の上で、嶮しい坂がある。

「帯をゆるめるか、少し横になって、醒ましたらいいだろう」

「そんなことだめ。こうすればいいの、慣れてる」と、女はしゃんと坐って胸を張ったが、息が苦しくなるばかりだった。窓をあけて吐こうとしても出なかった。身をもんで転りたいのを噛みこらえているありさまが続いて、時々意志を奮い起すように、帰る帰ると繰り返しながら、いつか午前二時を過ぎた。

「あんたは寝なさい。さあ、寝なさいったら」

「君はどうするんだ」

「こうやってる。少し醒まして帰る。夜のあけないうちに帰る」と、いざり寄って島村を引っぱった。

「私にかまわないで寝なさいってば」

島村が寝床に入ると、女は机に胸を崩して水を飲んだが、

「起きなさい。ねえ、起きなさいったら」

「どうしろって言うんだ」

「やっぱり寝てなさい」

「なにを言ってるんだ」と、島村は立ち上った。

女を引き摺って行った。

やがて、顔をあちらに反向けこちらに隠していた女が、突然激しく唇を突き出した。

しかしその後でも、むしろ苦痛を訴える譫言のように、

「いけない。いけないの。お友達でいようって、あなたがおっしゃったじゃないの」と、幾度繰り返したかしれなかった。

島村はその真剣な響きに打たれ、額に皺立て顔をしかめて懸命に自分を抑えている意志の強さには、味気なく白けるほどで、女との約束を守ろうかとも思った。

「私はなんにも惜しいものはないのよ。決して惜しいんじゃないのよ。だけど、そういう女じゃない。私はそういう女じゃないの。きっと長続きしないって、あんた自分で言ったじゃないの」

酔いで半ば痺れていた。

「私が悪いんじゃないわよ。あんたが悪いのよ。あんたが負けたのよ。あんたが弱いのよ。私じゃないのよ」などと口走りながら、よろこびにさからうためにそでをかんでいた。

しばらく気が抜けたみたいに静かだったが、ふと思い出して突き刺すように、

「あんた笑ってるわね。私を笑ってるわね」

「笑ってやしない」

「心の底で笑ってるでしょう。今笑ってなくっても、きっと後で笑うわ」と、女はうつぶせになってむせび泣いた。

でもすぐに泣き止むと、自分をあてがうように柔かくして、人なつっこくこまごまと身の上などを話し出した。酔いの苦しさは忘れたように抜けたらしかった。今のことにはひとことも触れなかった。

「あら、お話に夢中になってちっとも知らなかったわ」と、今度はぽうっと微笑んだ。

夜のあけないうちに帰らねばならないと言って、

「まだ暗いわね。この辺の人はそれは早起きなの」と、幾度も立ち上って窓をあけてみた。

「まだ人の顔は見えませんわね。今朝は雨だから、誰も田へ出ないから」

雨のなかに向うの山や麓の屋根の姿が浮び出してからも、女は立ち去りにくそうにしていたが、宿の人の起きる前に髪を直すと、島村が玄関まで送ろうとするのも人目を恐れて、あわただしく逃げるように、一人で抜け出して行った。そして島村はその日東京に帰ったのだった。

「君はあの時、ああ言ってたけれども、あれはやっぱり嘘だよ。そうでなければ、誰が年の暮にこんな寒いところへ来るものか。後でも笑やしなかったよ」

女がふっと顔を上げると、島村の掌に押しあてていた瞼から鼻の両側へかけて赤らんでいるのが、濃い白粉を透して見えた。それはこの雪国の夜の冷たさを思わせながら、髪の色の黒が強いために、温かいものに感じられた。

その顔は眩しげに含み笑いを浮べていたが、そうするうちにも「あの時」を思い出すのか、まるで島村の言葉が彼女の体をだんだん染めて行くかのようだった。女はむっとしてうなだれると、襟をすかしているから、背なかの赤くなっているのまで見え、なまなましく濡れた裸を剥き出したようであった。髪の色との配合のために、なおそう思われるのかもしれない。前髪が細かく生えつまっているというのではないけれども、毛筋が男みたいに太くて、後れ毛一つなく、なにか黒い鉱物の重ったいような光だった。

今さっき手に触れて、こんな冷たい髪の毛は初めてだとびっくりしたのは、寒気のせいではなく、こういう髪そのもののせいであったかと思えて、島村が眺め直していると、女は火燵板の上で指を折りはじめた。それがなかなか終らない。

「なにを勘定してるんだ」と聞いても、黙ってしばらく指折り数えていた。

「五月の二十三日ね」

「そうか。日数を数えてたのか。七月と八月と大が続くんだよ」

「ね、百九十九日目だわ。ちょうど百九十九日目だわ」

「だけど、五月二十三日って、よく覚えてるね」

「日記を見れば、すぐ分るわ」

「日記? 日記をつけてるの?」

「ええ、古い日記を見るのは楽しみですわ。なんでも隠さずその通りに書いてあるから、ひとりで読んでいても恥かしいわ」

「いつから」

「東京でお酌に出る少し前から。その頃はお金が自由にならないでしょう。自分で買えないの。二銭か三銭の雑記帳にね、定規をあてて、細かい罫を引いて、それが鉛筆を細く削ったと見えて、線がきれいに揃ってるんですの。そうして帳面の上の端から下の端まで、細かい字がぎっちり書いてあるの。自分で買えるようになったら、駄目。物を粗末に使うから。手習だって、元は古新聞に書いてたけれど、この頃は巻紙へじかでしょう」

「ずっと欠かさず日記をつけてるのかい」

「ええ、十六の時のと今年のとが、一番面白いわ。いつもお座敷から帰って、寝間着に着替えてつけたのね。遅く帰るでしょう。ここまで書いて、中途で眠ってしまったなんて、今読んでも分るところがあるの」

「そうかねえ」

「だけど、毎日毎日ってんじゃなく、休む日もあるのよ。こんな山の中だし、お座敷へ出たって、きまりきってるでしょう。今年はペエジごとに日附の入ったのしか買えなくて、失敗したわ。書き出せばどうしても長くなることがあるもの」

日記の話よりもなお島村が意外の感に打たれたのは、彼女は十五、六の頃から、読んだ小説をいちいち書き留めておき、そのための雑記帳がもう十冊にもなったということであった。

「感想を書いとくんだね?」

「感想なんか書けませんわ。題と作者と、それから出て来る人物の名前と、その人達の関係と、それくらいのものですわ」

「そんなものを書き止めといたって、しようがないじゃないか」

「しようがありませんわ」

「徒労だね」

「そうですわ」と、女はこともなげに明るく答えて、しかしじっと島村を見つめていた。

全く徒労であると、島村はなぜかもう一度声を強めようとしたとたんに、雪の鳴るような静けさが身にしみて、それは女に惹きつけられたのであった。彼女にとってはそれが徒労であろうはずがないとは彼も知りながら、頭から徒労だと叩きつけると、なにかかえって彼女の存在が純粋に感じられるのであった。

この女の小説の話は、日常使われる文学という言葉とは縁がないもののように聞えた。婦人雑誌を交換して読むくらいしか、この村の人との間にそういう友情はなく、後は全く孤立して読んでいるらしかった。選択もなく、さほどの理解もなく、宿屋の客間などでも小説本や雑誌を見つける限り、借りて読むという風であるらしかったが、彼女が思い出すままに挙げる新しい作家の名前など、島村の知らないのが少くなかった。しかし彼女の口ぶりは、まるで外国文学の遠い話をしているようで、無慾な乞食に似た哀れな響きがあった。自分が洋書の写真や文字を頼りに、西洋の舞踊を遥かに夢想しているのもこんなものであろうと、島村は思ってみた。

彼女もまた見もしない映画や芝居の話を、楽しげにしゃべるのだった。こういう話相手に幾月も飢えていた後なのであろう。百九十九日前のあの時も、こういう話に夢中になったことが、自ら進んで島村に身を投げかけてゆくはずみとなったのも忘れてか、またしても自分の言葉の描くもので体まで温まって来る風であった。

しかし、そういう都会的なものへのあこがれも、今はもう素直なあきらめにつつまれて無心な夢のようであったから、都の落人じみた高慢な不平よりも、単純な徒労の感が強かった。彼女自らはそれを寂しがる様子もないが、島村の眼には不思議な哀れとも見えた。その思いに溺れたなら、島村自らが生きていることも徒労であるという、遠い感傷に落されて行くのであろう。けれども目の前の彼女は山気に染まって生き生きした血色だった。

いずれにしろ、島村は彼女を見直したことにはなるので、相手が芸者というものになった今はかえって言い出しにくかった。

あの時彼女は泥酔していて、痺れて役に立たぬ腕を歯痒いがって、

「なんだこんなもの。畜生。畜生。だるいよ。こんなもの」と、肘に激しくかぶりついたほどであった。

足が立たないので、体をごろんごろん転がして、

「決して惜しいんじゃないのよ。だけどそういう女じゃない。私はそういう女じゃないの」と言った言葉も思い出されて来て、島村はためらっていると女はすばやく気づいて撥ね返すように、

「零時の上りだわ」と、ちょうどその時聞えた汽笛に立ち上って、思い切り乱暴に紙障子とガラス戸をあけ、手摺へ体を投げつけざま窓に腰かけた。

冷気が部屋へいちどきに流れ込んだ。汽車の響きは遠ざかるにつれて、夜風のように聞えた。

「おい、寒いじゃないか。馬鹿」と、島村も立ち上って行くと風はなかった。

一面の雪の凍りつく音が地の底深く鳴っているような、厳しい夜景であった。月はなかった。嘘のように多い星は、見上げていると、虚しい速さで落ちつつあると思われるほど、あざやかに浮き出ていた。星の群が目へ近づいて来るにつれて、空はいよいよ遠く夜の色を深めた。国境の山々はもう重なりも見分けられず、そのかわりそれだけの厚さがありそうないぶした黒で、星空の裾に重みを垂れていた。すべて冴え静まった調和であった。

島村が近づくのを知ると、女は手摺に胸を突っ伏せた。それは弱々しさではなく、こういう夜を背景にして、これより頑固なものはないという姿であった。島村はまたかと思った。

しかし、山々の色は黒いにかかわらず、どうしたはずみかそれがまざまざと白雪の色に見えた。そうすると山々が透明で寂しいものであるかのように感じられて来た。空と山とは調和などしていない。

島村は女の咽仏のあたりを掴んで、

「風邪を引く。こんなに冷たい」と、ぐいとうしろへ起そうとした。女は手摺にしがみつきながら声をつまらせて、

「私帰るわ」

「帰れ」

「もうしばらくこうさしといて」

「それじゃ僕はお湯に入って来るよ」

「いやよ。ここにいなさい」

「窓をしめてくれ」

「もうしばらくこうさしといて」

村は鎮守の杉林の陰に半ば隠れているが、自動車で十分足らずの停車場の燈火は、寒さのためぴいんぴいんと音を立てて毀れそうに瞬いていた。

女の頬も、窓のガラスも、自分のどてらの袖も、手に触るものは皆、島村にはこんな冷たさは初めてだと思われた。

足の下の畳までが冷えて来るので、一人で湯に行こうとすると、

「待って下さい。私も行きます」と、今度は女が素直について来た。

彼の脱ぎ散らすものを女が乱れ籠に揃えているところへ、男の泊り客が入って来たが、島村の胸の前へすくんで顔を隠した女に気がつくと、

「あっ、失礼しました」

「いいえ、どうぞ。あっちの湯へ入りますから」と、島村はとっさに言って、裸のまま乱れ籠を抱えて隣りの女湯の方へ行った。女はむろん夫婦面でついて来た。島村は黙って後も見ずに温泉へ飛び込んだ。安心して高笑いがこみ上げて来るので、湯口に口をあてて荒っぽく嗽いをした。

部屋に戻ってから、女は横にした首を軽く浮かして鬢を小指で持ち上げながら、

「悲しいわ」と、ただひとこと言っただけであった。

女が黒い眼を半ば開いているのかと、近々のぞきこんでみると、それは睫毛であった。

神経質な女は一睡もしなかった。

固い女帯をしごく音で、島村は目が覚めたらしかった。

「早く起して悪かったわ。まだ暗いわね。ねえ、見て下さらない?」と、女は電燈を消した。

「私の顔が見える? 見えない?」

「見えないよ。まだ夜が明けないじゃないか」

「嘘よ。よく見て下さらなければ駄目よ。どう?」と、女は窓を明け放して、

「いけないわ。見えるわね。私帰るわ」

明け方の寒さに驚いて、島村が枕から頭を上げると、空はまだ夜の色なのに、山はもう朝であった。

「そう、大丈夫。今は農家が暇だから、こんなに早く出歩く人はないわ。でも山へ行く人があるかしら」と、ひとりごとを言いながら、女は結びかかった帯をひきずって歩き、

「今の五時の下りでお客がなかったわね。宿の人はまだまだ起きないわ」

帯を結び終ってからも、女は立ったり坐ったり、そうしてまた窓の方ばかり見て歩き廻った。それは夜行動物が朝を恐れて、いらいら歩き廻るような落ちつきのなさだった。妖しい野性がたかぶって来るさまであった。

そうするうちに部屋のなかまで明るんで来たか、女の赤い頬が目立って来た。島村は驚くばかりあざやかな赤い色に見とれて、

「頬っぺたが真赤じゃないか、寒くて」

「寒いんじゃないわ。白粉を落したからよ。私は寝床へ入るとすぐ、足の先までぽっぽして来るの」と、枕もとの鏡台に向って、

「とうとう明るくなってしまったわ。帰りますわ」

島村はその方を見て、ひょっと首を縮めた。鏡の奥が真白に光っているのは雪である。その雪のなかに女の真赤な頬が浮んでいる。なんともいえぬ清潔な美しさであった。

もう日が昇るのか、鏡の雪は冷たく燃えるような輝きを増して来た。それにつれて雪に浮ぶ女の髪もあざやかな紫光りの黒を強めた。

雪を積らせぬためであろう、湯槽から溢れる湯を俄づくりの溝で宿の壁沿いにめぐらせてあるが、玄関先では浅い泉水のように拡がっていた。黒く逞しい秋田犬がそこの踏石に乗って、長いこと湯を舐めていた。物置から出して来たらしい、客用のスキイが干し並べてある、そのほのかな黴の匂いは、湯気で甘くなって、杉の枝から共同湯の屋根に落ちる雪の塊も、温かいもののように形が崩れた。

やがて年の暮から正月になれば、あの道が吹雪で見えなくなる。山袴にゴムの長靴、マントにくるまり、ヴェエルをかぶって、お座敷へ通わねばならぬ。その頃の雪の深さは一丈もある。そう言って、丘の上の宿の窓から、女が夜明け前に見下していた坂道を、島村は今下りて行くのであったけれども、道端に高く干した襁褓の下に、国境の山々が見えて、その雪の輝きものどかであった。青い葱はまだ雪に埋もれてはいなかった。

田圃で村の子供がスキイに乗っていた。

街道の村へ入ると、静かな雨滴のような音が聞えていた。

軒端の小さい氷柱が可愛く光っていた。

屋根の雪を落す男を見上げて、

「ねえ、ついでにうちのも少し落してくれない?」と、湯帰りの女が眩しそうに濡れ手拭で額を拭いた。スキイ季節を目指して早くも流れこんで来た女給であろう。隣家はガラス窓の色絵も古び、屋根のゆがんだカフエであった。

たいていの家の屋根は細かい板で葺いて、上に石が置き並べてある。それらの円い石は日のあたる半面だけ雪のなかに黒い肌を見せているが、その色は湿ったというよりも永の風雪にさらされた黒ずみのようである。そして家々はまたその石の感じに似た姿で、低い屋並みが北国らしくじっと地に伏したようであった。

子供の群が溝の氷を抱き起して来ては、道に投げて遊んでいた。脆く砕け飛ぶ際に光るのが面白いのだろう。日光のなかに立っていると、その氷の厚さが嘘のように思われて、島村はしばらく眺め続けた。

十三、四の女の子が一人石垣にもたれて、毛糸を編んでいた。山袴に高下駄を履いていたが、足袋はなく、赤らんだ素足の裏に皹が見えた。傍の粗朶の束に乗せられて、三歳ばかりの女の子が無心に毛糸の玉を持っていた。小さい女の子から大きい女の子へ引っぱられる一筋の灰色の古毛糸も暖かく光っていた。