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七、八軒先きのスキイ製作所から鉋の音が聞える。その反対側の軒陰に芸者が五、六人立話をしていた。今朝になって宿の女中からその芸名を聞いた駒子もそこにいそうだと思うと、やっぱり彼女は彼の歩いて来るのを見ていたらしく、一人生真面目な顔つきであった。きっと真赤になるにきまっている、なにげない風を装ってくれるようにと、島村が考える暇もなく、駒子はもう咽まで染めてしまった。それなら後向きになればいいのに、窮屈そうに眼を伏せながら、しかも彼の歩みにつれて、その方へ少しずつ顔を動かして来る。

島村も頬が火照るようで、さっさと通り過ぎると、すぐに駒子が追っかけて来た。

「困るわ、あんなとこお通りになっちゃ」

「困るって、こっちこそ困るよ。あんなに勢揃いしてられると、恐ろしくて通れんね。いつもああかい」

「そうね、おひる過ぎは」

「顔を赤くしたり、ばたばた追っかけて来たりすれば、なお困るじゃないか」

「かまやしない」と、はっきり言いながら駒子はまた赤くなると、その場に立ち止まってしまって、道端の柿の木につかまった。

「うちへ寄っていただこうと思って、走って来たんですわ」

「君の家がここか」

「ええ」

「日記を見せてくれるなら、寄ってもいいね」

「あれは焼いてから死ぬの」

「だって君の家、病人があるんだろう」

「あら。よく御存じね」

「昨夜、君も駅へ迎えに出てたじゃないか、濃い青のマントを着て。僕はあの汽車で、病人のすぐ近くに乗って来たんだよ。実に真剣に、実に親切に、病人の世話をする娘さんが付き添ってたけど、あれ細君かね。ここから迎えに行った人? 東京の人? まるで母親みたいで、僕は感心して見てたんだ」

「あんた、そのこと昨夜どうして私に話さなかったの。なぜ黙ってたの」と、駒子は気色ばんだ。

「細君かね」

しかしそれには答えないで、

「なぜ昨夜話さなかったの。おかしな人」

島村は女のこういう鋭さを好まなかった。けれども女をこんな風に鋭くするわけは、島村にも駒子にもないはずだと思われるので、それでは駒子の性格の現われかとも見られたが、とにかく繰り返して突っ込まれると、彼は急所にさわられたような気はして来るのであった。今朝山の雪を写した鏡のなかに駒子を見た時も、むろん島村は夕暮の汽車の窓ガラスに写っていた娘を思い出したのだったのに、なぜそれを駒子に話さなかったのだろうか。

「病人がいたっていいですわ。私の部屋へは誰も上って来ませんわ」と、駒子は低い石垣のなかへ入った。

右手は雪をかぶった畑で、左には柿の木が隣家の壁沿いに立ち並んでいた。家の前は花畑らしく、その真中の小さい蓮池の氷は縁に持ち上げてあって、緋鯉が泳いでいた。柿の木の幹のように家も朽ち古びていた。雪の斑らな屋根は板が腐って軒に波を描いていた。

土間へ入ると、しんと寒くて、なにも見えないでいるうちに、梯子を登らせられた。それはほんとうに梯子であった。上の部屋もほんとうに屋根裏であった。

「お蚕さまの部屋だったのよ。驚いたでしょう」

「これで、酔っ払って帰って、よく梯子を落ちないね」

「落ちるわ。だけどそんな時は下の火燵に入ると、たいていそのまま眠ってしまいますわ」と、駒子は火燵蒲団に手を入れてみて、火を取りに立った。

島村は不思議な部屋のありさまを見廻した。低い明り窓が南に一つあるきりだけれども、桟の目の細かい障子は新しく貼り替えられ、それに日射しが明るかった。壁にもたんねんに半紙が貼ってあるので、古い紙箱に入った心地だが、頭の上は屋根裏がまる出しで、窓の方へ低まって来ているものだから、黒い寂しさがかぶさったようであった。壁の向側はどうなってるのだろうと考えると、この部屋が宙に吊るさっているような気がして来て、なにか不安定であった。しかし壁や畳は古びていながら、いかにも清潔であった。

蚕のように駒子も透明な体でここに住んでいるかと思われた。

置火燵には山袴とおなじ木綿縞の蒲団がかかっていた。箪笥は古びているが、駒子の東京暮しの名残か、柾目のみごとな桐だった。それと不似合に粗末な鏡台だった。朱塗の裁縫箱がまた贅沢なつやを見せていた。壁に板を段々に打ちつけたのは、本箱なのであろう、めりんすのカアテンが垂らしてあった。

昨夜の座敷着が壁にかかって、襦袢の赤い裏を開いていた。

駒子は十能を持って、器用に梯子を上って来ると、

「病人の部屋からだけれど、火はきれいだって言いますわ」と、結いたての髪を伏せながら、火燵の灰を掻き起して、病人は腸結核で、もう故郷へ死にに帰ったのだと話した。

故郷とはいえ、息子はここで生れたのではない。ここは母の村なのだ。母は港町で芸者を勤め上げた後も、踊の師匠としてそこにとどまっていたが、まだ五十前で中風をわずらい、療養かたがたこの温泉へ帰って来た。息子は小さい時から機械が好きで、せっかく時計屋に入っていたから、港町に残して置いたところ、間もなく東京に出て、夜学に通っていたらしい。体の無理が重なったのだろう。今年二十六という。

それだけを駒子は一気に話したけれども、息子を連れて帰った娘がなにものであるか、どうして駒子がこの家にいるのかというようなことには、やはり一言も触れなかった。

しかしそれだけでも、宙に吊るされたようなこの部屋の工合では、駒子の声が八方へ洩れそうで、島村は落ちついていられなかった。

門口を出しなに、ほの白いものが眼について振り返ると、桐の三味線箱だった。実際よりも大きく長いものに感じられて、これを座敷へ担いで行くなんて嘘のような気がしていると、煤けた襖があいて、

「駒ちゃん、これを跨いじゃいけないの?」

澄み上って悲しいほど美しい声だった。どこかから木魂が返って来そうであった。

島村は聞き覚えている、夜汽車の窓から雪のなかの駅長を呼んだ、あの葉子の声である。

「いいわ」と、駒子が答えると、葉子は山袴でひょいと三味線を跨いだ。ガラスの溲瓶をさげていた。

駅長と知合いらしい昨夜の話しぶりでも、この山袴でも、葉子がここらあたりの娘なことは明らかだが、派手な帯が半ば山袴の上に出ているので、山袴の蒲色と黒とのあらい木綿縞はあざやかに引き立ち、めりんすの長い袂も同じわけでなまめかしかった。山袴の股は膝の少し上で割れているから、ゆっくり膨らんで見え、しかも硬い木綿がひきしまって見え、なにか安らかであった。

しかし葉子はちらっと刺すように島村を一目見ただけで、ものも言わずに土間を通り過ぎた。

島村は表に出てからも、葉子の目つきが彼の額の前に燃えていそうでならなかった。それは遠いともし火のように冷たい。なぜならば、汽車の窓ガラスに写る葉子の顔を眺めているうちに、野山のともし火がその彼女の顔の向うを流れ去り、ともし火と瞳とが重なって、ぽうっと明るくなった時、島村はなんともいえぬ美しさに胸が顫えた、その昨夜の印象を思い出すからであろう。それを思い出すと、鏡のなかいっぱいの雪のなかに浮んだ、駒子の赤い頬も思い出されて来る。

そうして足が早くなった。小肥りの白い足にかかわらず、登山を好む島村は山を眺めながら歩くと放心状態となって、知らぬうちに足が早まる。いつでもたちまち放心状態に入りやすい彼にとっては、あの夕景色の鏡や朝雪の鏡が、人工のものとは信じられなかった。自然のものであった。そして遠い世界であった。

今出て来たばかりの駒子の部屋までが、もうその遠い世界のように思われる。そういう自分にさすが驚いて、坂を登りつめると、女按摩が歩いていた。島村はなにかつかまえるように、

「按摩さん、揉んでもらえないかね」

「そうですね。今何時ですかしら」と、竹の杖を小脇に抱えると、右手で帯の間から蓋のある懐中時計を出して、左の指先で文字盤をさぐりながら、

「二時三十五分過ぎでございますね。三時半に駅の向うへ行かんなりませんけれども、少し後れてもいいかな」

「よく時計の時間が分るね」

「はい、ガラスが取ってございますから」

「さわると字が分るかね」

「字は分りませんけれども」と、女持ちには大きい銀時計をもう一度出して蓋をあけると、ここが十二時ここが六時、その真中が三時という風に指で抑えて見せ、

「それから割り出して、一分までは分らなくても、二分とはまちがいません」

「そうかね。坂道なんか辷らないかね」

「雨が降れば娘が迎えに来てくれます。夜は村の人を揉んで、もうここへは登って来ません。亭主が出さないのだと、宿の女中さんが言うからかないませんわ」

「子供さんはもう大きいの?」

「はい。上の女は十三になります」などと話しながら部屋に来て、しばらく黙って揉んでいたが、遠い座敷の三味線の音に首を傾けた。

「誰かな」

「君は三味線の音で、どの芸者か皆分るかい」

「分る人もあります。分らんのもあります。旦那さん、ずいぶん結構なお身分で、柔かいお体でございますね」

「凝ってないだろう」

「凝って、首筋が凝っております。ちょうどよい工合に太ってらっしゃいますが、お酒は召し上りませんね」

「よく分るな」

「ちょうど旦那さまと同じような姿形のお客さまを、三人知っております」

「至極平凡な体だがね」

「なんでございますね、お酒を召し上らないと、ほんとうに面白いということがございませんね、なにもかも忘れてしまう」

「君の旦那さんは飲むんだね」

「飲んで困ります」

「誰だか下手な三味線だね」

「はい」

「君は弾くんだろう」

「はい。九つの時から二十まで習いましたけれど、亭主を持ってから、もう十五年も鳴らしません」

盲は年より若く見えるものであろうかと島村は思いながら、

「小さい時に稽古したのは確かだね」

「手はすっかり按摩になってしまいましたけれど、耳はあいております。こうやって芸者衆の三味線を聞いてますと、じれったくなったりして、はい、昔の自分のような気がするんでございましょうね」と、また耳を傾けて、

「井筒屋のふみちゃんかしら。一番上手な子と一番下手な子は、一番よく分りますね」

「上手な人もいるかい」

「駒ちゃんという子は、年が若いけれど、この頃達者になりましたねえ」

「ふうん」

「旦那さん、御存じなんですね。そりゃ上手と言っても、こんな山ん中でのことですから」

「いや知らないけれど、師匠の息子が帰るのと、昨夜同じ汽車でね」

「おや、よくなって帰りましたか」

「よくないようだったね」

「はあ? あの息子さんが東京で長患いしたために、その駒子という子がこの夏芸者に出てまで、病院の金を送ったそうですが、どうしたんでしょう」

「その駒子って?」

「でもまあ、尽すだけ尽しておけば、いいなずけだというだけでも、後々までねえ」

「いいなずけって、ほんとうのことかね」

「はい。いいなずけだそうでございますよ。私は知りませんが、そういう噂でございますね」

温泉宿で女按摩から芸者の身の上を聞くとは、あまりに月並で、かえって思いがけないことであったが、駒子がいいなずけのために芸者に出たというのも、あまりに月並な筋書で、島村は素直にのみこめぬ心地であった。それは道徳的な思いに突き当ったせいかもしれなかった。

彼は話に深入りして聞きたく思いはじめたけれども、按摩は黙ってしまった。

駒子が息子のいいなずけだとして、葉子が息子の新しい恋人だとして、しかし息子はやがて死ぬのだとすれば、島村の頭にはまた徒労という言葉が浮んで来た。駒子がいいなずけの約束を守り通したことも、身を落してまで療養させたことも、すべてこれ徒労でなくてなんであろう。

駒子に会ったら、頭から徒労だと叩きつけてやろうと考えると、またしても島村にはなにかかえって彼女の存在が純粋に感じられて来るのだった。

この虚偽の麻痺には、破廉恥な危険が匂っていて、島村はじっとそれを味わいながら、按摩が帰ってからも寝転んでいると、胸の底まで冷えるように思われたが、気がつけば窓を明け放したままなのであった。

山峡は日陰となるのが早く、もう寒々と夕暮色が垂れていた。そのほの暗さのために、まだ西日が雪に照る遠くの山々はすうっと近づいて来たようであった。

やがて山それぞれの遠近や高低につれて、さまざまの襞の陰を深めて行き、峰にだけ淡い日向を残す頃になると、頂の雪の上は夕焼空であった。

村の川岸、スキイ場、社など、ところどころに散らばる杉木立が黒々と目立ち出した。

島村は虚しい切なさに曝されているところへ、温かい明りのついたように駒子が入って来た。

スキイ客を迎える準備の相談会がこの宿にある。その後の宴会に呼ばれたと言った。火燵に入ると、いきなり島村の頬を撫で廻しながら、

「今夜は白いわ。変だわ」

そして揉みつぶすように柔かい頬の肉を掴んで、

「あんたは馬鹿だ」

もう少し酔っているらしかったが、宴会を終えて来た時は、

「知らん。もう知らん。頭痛い。頭痛い。ああ、難儀だわ、難儀」と、鏡台の前に崩れ折れると、おかしいほど一時に酔いが顔へ出た。

「水飲みたい、水ちょうだい」

顔を両手で抑えて、髪の毀れるのもかまわずに倒れていたが、やがて坐り直してクリイムで白粉を落すと、あまりに真赤な顔が剥き出しになったので、駒子も自分ながら楽しげに笑い続けた。面白いほど早く酒が醒めて来た。寒そうに肩を顫わせた。

そして静かな声で、八月いっぱい神経衰弱でぶらぶらしていたなどと話しはじめた。

「気ちがいになるのかと心配だったわ。なにか一生懸命に思いつめてるんだけれど、なにを思いつめてるか、自分によく分らないの。怖いでしょう。ちっとも眠れないし、それでお座敷へ出た時だけしゃんとするのよ。いろんな夢を見たわ。御飯もろくに食べられないものね。畳へね、縫針を突き刺したり抜いたり、そんなこといつまでもしてるのよ、暑い日中にさ」

「芸者に出たのは何月」

「六月。もしかしたら私、今頃は浜松へ行ってたかしれないのよ」

「世帯を持って?」

駒子はうなずいた。浜松の男に結婚してくれと追い廻されたが、どうしても男が好きになれないで、ずいぶん迷ったと言った。

「好きでないものを、なにも迷うことないじゃないか」

「そうはいかないわ」

「結婚て、そんな力があるかな」

「いやらしい。そうじゃないけれど、私は身のまわりがきちんとかたづいてないと、いられないの」

「うん」

「あんた、いい加減な人ね」

「だけど、その浜松の人となにかあったのかい」

「あれば迷うことないじゃないの」と、駒子は言い放って、

「でも、お前がこの土地にいる間は、誰とも結婚させない。どんなことしても邪魔してやるって言ったわよ」

「浜松のような遠くにいてね。君はそんなことを気にしてるの」

駒子はしばらく黙って、自分の体の温かさを味うような風にじっと横たわっていたが、ふいとなにげなく、

「私妊娠していると思ってたのよ。ふふ、今考えるとおかしくって、ふふふ」と、含み笑いしながら、くっと身をすくめると、両の握り拳で島村の襟を子供みたいに掴んだ。

閉じ合わした濃い睫毛がまた、黒い目を半ば開いているように見えた。

翌る朝、島村が目を覚ますと、駒子はもう火鉢へ片肘突いて古雑誌の裏に落書していたが、

「ねえ、帰れないわ。女中さんが火を入れに来て、みっともない、驚いて飛び起きたら、もう障子に日があたってるんですもの。昨夜酔ってたから、とろとろと眠っちゃったらしいわ」

「幾時」

「もう八時」

「お湯へ行こうか」と、島村は起き上った。

「いや、廊下で人に会うから」と、まるでおとなしい女になってしまって、島村が湯から帰った時は、手拭を器用にかぶって、かいがいしく部屋の掃除をしていた。

机の足や火鉢の縁まで癇性に拭いて、灰を掻きならすのがもの馴れた様子であった。

島村が火燵へ足を入れたままごろごろして煙草の灰を落すと、それを駒子はハンカチでそっと拭き取っては、灰皿をもって来た。島村は朝らしく笑い出した。駒子も笑った。

「君が家を持ったら、亭主は叱られ通しだね」

「なにも叱りゃしないじゃないの。洗濯するものまで、きちんと畳んでおくって、よく笑われるけれど、性分ね」

「箪笥のなかを見れば、その女の性質が分るって言うよ」

部屋いっぱいの朝日に温まって飯を食いながら、

「いいお天気。早く帰って、お稽古をすればよかったわ。こんな日は音がちがう」