「よくないわ。あんたもう二度と来るか来ないか、私には分りゃしない」
「来るよ、来るよ」
葉子はそんなことなにも聞えぬ風で、急き込みながら、
「今ね、宿へ電話をかけたの、駅だって言うから、飛んで来た。行男さんが呼んでる」と、駒子を引っぱるのに、駒子はじっとこらえていたが、急に振り払って、
「いやよ」
そのとたん、二、三歩よろめいたのは駒子の方であった。そして、げえっと吐気を催したが、口からはなにも出ず、目の縁が湿って、頬が鳥肌立った。
葉子は呆然としゃちこ張って、駒子を見つめていた。しかし顔つきはあまりに真剣なので、怒っているのか、驚いているのか、悲しんでいるのか、それが現われず、なにか仮面じみて、ひどく単純に見えた。
その顔のまま振り向くと、いきなり島村の手を掴んで、
「ねえ、すみません。この人を帰して下さい。帰して下さい」と、ひたむきな高調子で責め縋って来た。
「ええ、帰します」と、島村は大きな声を出した。
「早く帰れよ、馬鹿」
「あんた、なにを言うことあって」と、駒子は島村に言いながら彼女の手は葉子を島村から押し退けていた。
島村は駅前の自動車を指ざそうとすると、葉子に力いっぱい掴まれていた手先が痺れたけれども、
「あの車で、今すぐ帰しますから、とにかくあんたは先きに行ってたらいいでしょう。ここでそんな、人が見ますよ」
葉子はこくりとうなずくと、
「早くね、早くね」と、言うなり後向いて走り出したのは嘘みたいにあっけなかったが、遠ざかる後姿を見送っていると、なぜまたあの娘はいつもああ真剣な様子なのだろうと、この場にあるまじい不審が島村の心を掠めた。
葉子の悲しいほど美しい声は、どこか雪の山から今にも木魂して来そうに、島村の耳に残っていた。
「どこへ行く」と、駒子は島村が自動車の運転手を見つけに行こうとするのを引き戻して、
「いや。私帰らないわよ」
ふっと島村は駒子に肉体的な憎悪を感じた。
「君達三人の間に、どういう事情があるかしらんが、息子さんは今死ぬかもしれんのだろう。それで会いたがって、呼びに来たんじゃないか。素直に帰ってやれ。一生後悔するよ。こう言ってるうちにも、息が絶えたらどうする。強情張らないでさらりと水に流せ」
「ちがう。あんた誤解しているわ」
「君が東京へ売られて行く時、ただ一人見送ってくれた人じゃないか。一番古い日記の、一番初めに書いてある、その人の最後を見送らんという法があるか。その人の命の一番終りのペエジに、君を書きに行くんだ」
「いや、人の死ぬの見るなんか」
それは冷たい薄情とも、あまりに熱い愛情とも聞えるので、島村は迷っていると、
「日記なんかもうつけられない。焼いてしまう」と、駒子は呟くうちになぜか頬が染まって来て、
「ねえ、あんた素直な人ね。素直な人なら、私の日記をすっかり送ってあげてもいいわ。あんた私を笑わないわね。あんた素直な人だと思うけれど」
島村はわけ分らぬ感動に打たれて、そうだ、自分ほど素直な人間はないのだという気がして来ると、もう駒子に強いて帰れとは言わなかった。駒子も黙ってしまった。
宿屋の出張所から番頭が出て来て、改札を知らせた。
陰気な冬支度の土地の人が四、五人、黙って乗り降りしただけであった。
「フォウムへは入らないわ。さよなら」と、駒子は待合室の窓のなかに立っていた。窓のガラス戸はしまっていた。それは汽車のなかから眺めると、うらぶれた寒村の果物屋の煤けたガラス箱に、不思議な果物がただ一つ置き忘れられたようであった。
汽車が動くとすぐ待合室のガラスが光って、駒子の顔はその光のなかにぽっと燃え浮ぶかと見る間に消えてしまったが、それはあの朝雪の鏡の時と同じに真赤な頬であった。またしても島村にとっては、現実というものとの別れ際の色であった。
国境の山を北から登って、長いトンネルを通り抜けてみると、冬の午後の薄光りはその地中の闇へ吸い取られてしまったかのように、また古ぼけた汽車は明るい殻をトンネルに脱ぎ落して来たかのように、もう峰と峰との重なりの間から暮色の立ちはじめる山峡を下って行くのだった。こちら側にはまだ雪がなかった。
流れに沿うてやがて広野に出ると、頂上は面白く切り刻んだようで、そこからゆるやかに美しい斜線が遠い裾まで伸びている山の端に月が色づいた。野末にただ一つの眺めである。その山の全き姿を淡い夕映の空がくっきりと濃深縹色に描き出した。月はもう白くはないけれども、まだ薄色で冬の夜の冷たい冴えはなかった。鳥一羽飛ばぬ空であった。山の裾野が遮るものもなく左右に広々と延びて、河岸へ届こうとするところに、水力電気らしい建物が真白に立っていた。それは冬枯の車窓に暮れ残るものであった。
窓はスチイムの温気に曇りはじめ、外を流れる野のほの暗くなるにつれて、またしても乗客がガラスへ半ば透明に写るのだった。あの夕景色の鏡の戯れであった。東海道線などとは別の国の汽車のように使い古して色褪せた旧式の客車が三、四輛しか繋がっていないのだろう。電燈も暗い。
島村はなにか非現実的なものに乗って、時間や距離の思いも消え、虚しく体を運ばれて行くような放心状態に落ちると、単調な車輪の響きが、女の言葉に聞えはじめて来た。
それらの言葉はきれぎれに短いながら、女が精いっぱいに生きているしるしで、彼は聞くのがつらかったほどだから忘れずにいるものだったが、こうして遠ざかって行く今の島村には、旅愁を添えるに過ぎないような、もう遠い声であった。
ちょうど今頃は、行男が息を引き取ってしまっただろうか。なぜか頑固に帰らなかったが、そのために駒子は行男の死目にもあえなかっただろうか。
乗客は不気味なほど少かった。
五十過ぎの男と顔の赤い娘とが向い合って、ひっきりなしに話しこんでいるばかりだった。肉の盛り上った肩に黒い襟巻を巻いて、娘は全く燃えるようにみごとな血色だった。胸を乗り出して一心に聞き、楽しげに受け答えしていた。長い旅を行く二人のように見えた。
ところが、製糸工場の煙突のある停車場へ来ると、爺さんはあわてて荷物棚の柳行李をおろして、それを窓からプラットフォウムへ落しながら、
「まあじゃあ、御縁でもってまたいっしょになろう」と、娘に言い残して降りて行った。
島村はふっと涙が出そうになって、われながらびっくりした。それで一入、女に別れての帰りだと思った。
偶然乗り合わせただけの二人とは夢にも思っていなかったのである。男は行商人かなにかだろう。
蛾が卵を産みつける季節だから、洋服を衣桁や壁にかけて出しっぱなしにしておかぬようにと、東京の家を出がけに細君が言った。来てみるといかにも、宿の部屋の軒端に吊るした装飾燈には、玉蜀黍色の大きい蛾が六、七匹も吸いついていた。次の間の三畳の衣桁にも、小さいくせに胴の太い蛾がとまっていた。
窓はまだ夏の虫除けの金網が張ったままであった。その網へ貼りつけたように、やはり蛾が一匹じっと静まっていた。檜皮色の小さい羽毛のような触角を突き出していた。しかし翅は透き通るような薄緑だった。女の指の長さほどある翅だった。その向うに連る国境の山々は夕日を受けて、もう秋に色づいているので、この一点の薄緑はかえって死のようであった。前の翅と後の翅との重なっている部分だけは、緑が濃い。秋風が来ると、その翅は薄紙のようにひらひらと揺れた。
生きているのかしらと島村が立ち上って、金網の内側から指で弾いても、蛾は動かなかった。拳でどんと叩くと、木の葉のようにぱらりと落ちて、落ちる途中から軽やかに舞い上った。
よく見ると、その向うの杉林の前には、数知れぬ蜻蛉の群が流れていた。たんぽぽの綿毛が飛んでいるようだった。
山裾の川は杉の梢から流れ出るように見えた。
白萩らしい花が小高い山腹に咲き乱れて銀色に光っているのを、島村はまた飽きずに眺めた。
内湯から出て来ると、ロシア女の物売りが玄関に腰かけていた。こんな田舎まで来るのだろうかと、島村は見に行った。ありふれた日本の化粧品や髪飾などだった。
もう四十を出ているらしく顔は小皺で垢じみていたが、太い首から覗けるあたりが真白に脂ぎっている。
「あんたどこから来ました」と、島村が問うと、
「どこから来ました? 私、どこからですか」と、ロシア女は答えに迷って、店をかたづけながら考える風だった。
不潔な布を巻いたようなスカアトは、もはや洋装という感じも失せ、日本慣れたもので、大きい風呂敷包を背負って帰って行った。それでも靴は履いていた。
いっしょに見送っていたおかみさんに誘われて、島村も帳場へ行くと、炉端に大柄の女が後向きに坐っていた。女は裾を取って立ち上った。黒紋附を着ていた。
スキイ場の宣伝写真に、座敷着のまま木綿の山袴を穿きスキイに乗って、駒子と並んでいたので、島村も見覚えのある芸者だった。ふっくりと押出しの大様な年増だった。
宿の主人は炉に金火箸を渡して、大きい小判型の饅頭を焼いていた。
「こんなもの、お一ついかがです。祝いものでございますから、お慰みに一口召上ってみたら」
「今の人が引いたんですか」
「はい」
「いい芸者ですね」
「年期があけて、挨拶廻りに来ましてな。よく売れた子でしたけれども」
熱い饅頭を吹きながら島村が噛んでみると、固い皮は古びた匂いで少し酸っぱかった。
窓の外には、真赤に熟した柿の実に夕日があたって、その光は自在鍵の竹筒にまで射しこんで来るかと思われた。
「あんな長い、薄ですね」と、島村は驚いて坂路を見た。背負って行く婆さんの身の丈の二倍もある。そして長い穂だ。
「はい。あれは萱でございますよ」
「萱ですか。萱ですか」
「鉄道省の温泉展覧会の時に、休憩所ですか、茶室を造りまして、その屋根はここの萱で葺きましてな。なんでも東京の方がその茶室をそっくりそのままお買いになったそうでございますよ」
「萱ですか」と、島村はもう一度ひとりごとのように呟いて、
「山に咲いているのは萱なんですね。萩の花かと思った」
島村が汽車から降りて真先に目についたのは、この山の白い花だった。急傾斜の山腹の頂上近く、一面に咲き乱れて銀色に光っている。それは山に降りそそぐ秋の日光そのもののようで、ああと彼は感情を染められたのだった。それを白萩と思ったのだった。
しかし近くに見る萱の猛々しさは、遠い山に仰ぐ感傷の花とはまるでちがっていた。大きい束はそれを背負う女達の姿をすっかり隠して、坂路の両側の石崖にがさがさ鳴って行った。逞しい穂であった。
部屋へ戻ってみると、十燭燈のほの暗い次の間では、あの胴の太い蛾が黒塗りの衣桁に卵を産んで歩いていた。軒端の蛾も装飾燈にばたばたぶっつかった。
虫は昼間から鳴きしきっていた。
駒子は少し後れて来た。
廊下に立ったまま、真向きに島村を見つめて、
「あんた、なにしに来た。こんなところへなにしに来た」
「君に会いに来た」
「心にもないこと。東京の人は嘘つきだから嫌い」
そして坐りながら、声を柔かに沈めると、
「もう送って行くのはいやよ。なんともいえない気持だわ」
「ああ、今度は黙って帰るよ」
「いやよ。停車場へは行かないっていうことだわ」
「あの人はどうなった」
「むろん死にました」
「君が送りに来てくれた間にか」
「でも、それとは別よ。送るって、あんなにいやなものとは思わなかったわ」
「うん」
「あんた二月の十四日はどうしたの。嘘つき。ずいぶん待ったわよ。もうあんたの言うことなんか、あてにしないからいい」
二月の十四日には鳥追い祭がある。雪国らしい子供の年中行事である。十日も前から、村の子供等は藁沓で雪を踏み固め、その雪の板を二尺ぐらいに切り起し、それを積み重ねて、雪の堂を築く。それは三間四方に高さ一丈に余る雪の堂である。十四日の夜は家々の注連縄を貰い集めて来て、堂の前であかあかと焚火をする。この村の正月は二月の一日だから、注連縄があるのだ。そうして子供達は雪の堂の屋根に上って、押し合い揉み合い鳥追いの歌を歌う。それから子供達は雪の堂に入って燈明をともし、そこで夜明しする。そしてもう一度、十五日の明け方に雪の堂の屋根で、鳥追いの歌を歌うのである。
ちょうどその頃は雪が一番深い時であろうから、島村は鳥追いの祭を見に来ると約束しておいたのだった。
「私二月は実家へ行ったのよ。商売を休んでたのよ。きっといらっしゃると思って、十四日に帰って来たんだわ。もっとゆっくり看病して来ればよかった」
「誰か病気」
「お師匠さんが港へ行ってて、肺炎になったんですの。私がちょうど実家にいたところへ電報が来て、看病したんですわ」
「よくなったの?」
「いいえ」
「それは悪かったね」と、島村は約束を守らなかったのを詫びるように、また師匠の死を悔むように言うと、
「ううん」と、駒子は急におとなしくかぶりを振って、ハンカチで机を払いながら、
「ひどい虫」
ちゃぶ台から畳の上まで細かい羽虫が一面に落ちて来た。小さい蛾が幾つも電燈を飛び廻っていた。
網戸にも外側から幾種類とも知れぬ蛾が点々ととまって、澄み渡った月明りに浮んでいた。
「胃が痛い、胃が痛い」と、駒子は両手を帯の間へぐっと挿し入れると、島村の膝へ突っ伏した。
襟をすかした白粉の濃いその首へも、蚊より小さい虫がたちまち群がり落ちた。見る間に死んで、そこで動かなくなるのもあった。
首のつけ根が去年より太って脂肪が乗っていた。二十一になったのだと、島村は思った。
彼の膝に生温かい湿りけが通って来た。
「駒ちゃん、椿の間へ行ってごらんて、帳場でにやにや笑ってるのよ。好かないわ。ねえさんを汽車で送って来て、帰って楽々寝ようと思ってると、ここからかかって来てるって言うんでしょう。大儀だからよっぽど止そうと思ったわ。昨夜飲み過ぎた。ねえさんの送別会だったの。お帳場で笑ってばかりいて、あんただった。一年ぶりねえ。一年に一度来る人なの?」
「あの饅頭を僕も食ったよ」
「そう?」と、駒子は胸を起した。島村の膝に押しつけていたところだけが赤らんで、急に幼なじみた顔に見えた。
次の次の停車場の町まで、あの年増芸者を見送って来たのだと言った。
「つまらないわ。前はなんでもすぐ纏まったけれど、だんだん個人主義になって銘々がばらばらなの。ここもずいぶん変ったわ。気性の合わない人が殖えるばかりなの。菊勇ねえさんがいなくなると、私は寂しいんです。なんでもあの人が中心だったから。売れることも一番で六百本を欠かすことはないから、うちでも大事にされてたんだけれど」
その菊勇は年期があけて生れた町へ帰るというが、結婚するのか、なにか水商売を続けるのかと島村が問うと、
「ねえさんも可哀想な人なの。お嫁入りは前に一度失敗して、ここへ来たのよ」と、駒子はその後を口籠って、とかくためらってから、月明りの段々畑の下を眺めて、
「あすこの坂の途中に、建ったばかりの家があるでしょう」
「菊村って小料理屋?」
「ええ。あの店へ入るはずだったのを、ねえさんの心柄でふいにしちゃったんだわ。騒ぎだったわね、せっかく自分のために家を建てさせておいて、いざ入るばかりになった時に、蹴っちゃったんですもの。好きな人が出来て、その人と結婚するつもりだったんだけれど、騙されてたのね。夢中になると、あんなかしらね。その相手に逃げられたからって、今から元の鞘におさまって、店を貰いますというわけにもいかないし、みっともなくてこの土地にはいられないし、またよそで稼ぎ直すんですわ。考えると可哀想なんだわ。私達もよく知らなかったけれど、いろんな人があったのね」
「男がね。五人もあったのかい」
「そうね」と、駒子は含み笑いをしたが、ふっと横を向いた。
「ねえさんも弱い人だったんだわ。弱虫だ」
「しかたがないさ」
「だってそうじゃないの。好かれたって、なんですか」
うつ向いたまま簪で頭を掻いた。
「今日送って行って、せつなかったわ」
「それでせっかくの店はどうしたの」
「本妻が来てやってるわ」
「本妻が来てやってるとは面白い」
「だって、開業の支度もすっかり出来てたんですもの。そうでもするよりしかたがないでしょう。子供もみんなつれて、本妻が移って来たわ」
「うちはどうしたんだね」
「お婆さんを一人残してあるんですって。百姓なんですけれど、主人がこんなこと好きなのね。それは面白い人」