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毎日がこんな風では、どうなってゆくことかと、さすがに駒子は身も心も隠したいようであったが、そのどこか孤独の趣きは、かえって風情をなまめかすばかりだった。

「廊下が鳴るので恥かしいわ。そっと歩いても分るのね。お勝手の横を通ると、駒ちゃん椿の間かって、笑うんですよ。こんな気兼ねをするようになろうとは思わなかった」

「土地が狭いから困るだろう」

「もうみんな知ってるわよ」

「そりゃいかんね」

「そうね。ちょっと悪い評判が立てば、狭い土地はおしまいね」と言ったが、すぐ顔を上げて微笑むと、

「ううん、いいのよ。私達はどこへ行ったって働けるから」

その素直な実感の籠った調子は、親譲りの財産で徒食する島村にはひどく意外だった。

「ほんとうよ。どこで稼ぐのもおんなじよ。くよくよすることない」

なにげない口ぶりなのだが、島村は女の響きを聞いた。

「それでいいのよ。ほんとうに人を好きになれるのは、もう女だけなんですから」と、駒子は少し顔を赤らめてうつ向いた。

襟を透かしているので、背から肩へ白い扇を拡げたようだ。その白粉の濃い肉はなんだか悲しく盛り上って、毛織物じみて見え、また動物じみて見えた。

「今の世のなかではね」と、島村は呟いて、その言葉の空々しいのに冷っとした。

しかし駒子は単純に、

「いつだってそうよ」

そして顔を上げると、ぼんやり言い足した。

「あんたそれを知らないの?」

背に吸いついている赤い肌襦袢が隠れた。

ヴァレリイやアラン、それからまたロシア舞踊の花やかだった頃のフランス文人達の舞踊論を、島村は翻訳しているのだった。小部数の贅沢本として自費出版するつもりである。今の日本の舞踊界になんの役にも立ちそうでない本であることが、かえって彼を安心させると言えば言える。自分の仕事によって自分を冷笑することは、甘ったれた楽しみなのだろう。そんなところから彼の哀れな夢幻の世界が生れるのかもしれぬ。旅にまで出て急ぐ必要はさらにない。

彼は昆虫どもの悶死するありさまを、つぶさに観察していた。

秋が冷えるにつれて、彼の部屋の畳の上で死んでゆく虫も日ごとにあったのだ。翼の堅い虫はひっくりかえると、もう起き直れなかった。蜂は少し歩いて転び、また歩いて倒れた。季節の移るように自然と亡びてゆく、静かな死であったけれども、近づいて見ると脚や触覚を顫わせて悶えているのだった。それらの小さい死の場所として、八畳の畳はたいへん広いもののように眺められた。

島村は死骸を捨てようとして指で拾いながら、家に残して来た子供達をふと思い出すこともあった。

窓の金網にいつまでもとまっていると思うと、それは死んでいて、枯葉のように散ってゆく蛾もあった。壁から落ちて来るのもあった。手に取ってみては、なぜこんなに美しく出来ているのだろうと、島村は思った。

その虫除けの金網も取りはずされた。虫の声がめっきり寂れた。

国境の山々は赤錆色が深まって、夕日を受けると少し冷たい鉱石のように鈍く光り、宿は紅葉の客の盛りであった。

「今日は来れないわよ、たぶん。地の人の宴会だから」と、その夜も駒子は島村の部屋へ寄って行くと、やがて大広間に太鼓が入って女の金切声も聞えて来たが、その騒々しさの最中に思いがけない近くから、澄み通った声で、

「御免下さい、御免下さい」と、葉子が呼んでいた。

「あの、駒ちゃんがこれよこしました」

葉子は立ったまま郵便配達のような恰好に手を突き出したが、あわてて膝を突いた。島村がその結び文を拡げていると、葉子はもういなくなった。なにを言う間もなかった。

「今とっても朗らかに騒いでます酒のんで」と、懐紙に酔った字で書いてあるだけだった。

しかし十分と経たぬうちに、駒子が乱れた足音で入って来て、

「今あの子がなにか持って来た?」

「来たよ」

「そう?」と、上機嫌に片目を細めながら、

「ふう、いい気持。お酒を註文しに行く、そう言って、そうっと抜けて来た。番頭さんに見つかって叱られた。お酒はいい、叱られても、足音が気にならん。ああ、いやだわ。ここへ来ると、急に酔いが出る。これから働きに行くの」

「指の先までいい色だよ」

「さあ、商売。あの子なんて言った? 恐ろしいやきもち焼きなの、知ってる?」

「誰が?」

「殺されちゃいますよ」

「あの娘さんも手伝ってるんだね」

「お銚子を運んで来て、廊下の蔭に立って、じいっと見てんのよ、きらきら目を光らして。あんたああいう目が好きなんでしょう」

「あさましいありさまだと思って見てたんだよ」

「だから、これ持ってらっしゃいって、書いてよこしたんだわ。水飲みたい、水ちょうだい。どっちがあさましいか、女は口説き落してみないことには、分らないわよ。私酔ってる?」と、倒れるように鏡台の両端をつかまえて覗きこむと、しゃんと裾を捌いて出て行った。

やがて宴会も終ったらしく、急にひっそりして、瀬戸物の音が遠く聞えたりするので、駒子も客に連れられて別の宿の二次会へ廻ったのかと思っていると、葉子がまた駒子の結び文を持って来た。

「山風館やめにしましたこれから梅の間帰りによりますおやすみ」

島村は少し恥かしそうに苦笑して、

「どうもありがとう。手伝いに来てるの?」

「ええ」と、うなずくはずみに、葉子はあの刺すように美しい目で、島村をちらっと見た。島村はなにか狼狽した。

これまで幾度も見かけるたびごとに、いつも感動的な印象を残している、この娘がなにごともなくこうして彼の前に坐っているのは、妙に不安であった。彼女の真剣過ぎる素振りは、いつも異常な事件の真中にいるという風に見えるのだった。

「いそがしそうだね」

「ええ。でも、私はなんにも出来ません」

「君にはずいぶんたびたび会ったな。初めはあの人を介抱して帰る汽車のなかで、駅長に弟さんのことを頼んでたの、覚えてる?」

「ええ」

「寝る前にお湯のなかで歌を歌うんだって?」

「あら、お行儀の悪い、いやだわ」と、その声が驚くほど美しかった。

「君のことはなにもかも知ってるような気がするね」

「そうですか。駒ちゃんにお聞きになったんですか」

「あの人はしゃべりゃしない。君の話をするのをいやがるくらいだよ」

「そうですか」と、葉子はそっと横を向いて、

「駒ちゃんはいいんですけれども、可哀想なんですから、よくしてあげて下さい」

早口に言う、その声が終りの方は微かに顫えた。

「しかし僕には、なんにもしてやれないんだよ」

葉子は今に体まで顫えて来そうに見えた。危険な輝きが迫って来るような顔から島村は目をそらせて笑いながら、

「早く東京へ帰った方がいいかもしれないんだけれどもね」

「私も東京へ行きますわ」

「いつ?」

「いつでもいいんですの」

「それじゃ、帰る時連れて行ってあげようか」

「ええ、連れて帰って下さい」と、こともなげに、しかし真剣な声で言うので、島村は驚いた。

「君のうちの人がよければね」

「うちの人って、鉄道へ出ている弟一人ですから、私がきめちゃっていいんです」

「東京になんかあてがあるの?」

「いいえ」

「あの人に相談した?」

「駒ちゃんですか。駒ちゃんは憎いから言わないんです」

そう言って、気のゆるみか、少し濡れた目で彼を見上げた葉子に、島村は奇怪な魅力を感じると、どうしてかかえって、駒子に対する愛情が荒々しく燃えて来るようであった。為体の知れない娘と駈落ちのように帰ってしまうことは、駒子への激しい謝罪の方法であるかとも思われた。またなにかしら刑罰のようでもあった。

「君はそんな、男の人と行ってこわくはないのかい」

「どうしてですか」

「君が東京でさしずめ落ちつく先きとか、なにをしたいとかいうことくらいきまってないと危いじゃないか」

「女一人くらいどうにでもなりますわ」と、葉子は言葉尻が美しく吊り上るように言って、島村を見つめたまま、

「女中に使っていただけませんの?」

「なあんだ、女中にか?」

「女中はいやなんです」

「この前東京にいた時は、なにをしてたんだ」

「看護婦です」

「病院か学校に入ってたの」

「いいえ、ただなりたいと思っただけですわ」

島村はまた汽車のなかで師匠の息子を介抱していた葉子の姿を思い出して、あの真剣さのうちには葉子の志望も現われていたのかと微笑まれた。

「それじゃ今度も看護婦の勉強がしたいんだね」

「看護婦にはもうなりません」

「そんな根なしじゃいけないね」

「あら、根なんて、いやだわ」と、葉子は弾き返すように笑った。

その笑い声も悲しいほど高く澄んでいるので、白痴じみては聞えなかった。しかし島村の心の殻を空しく叩いて消えてゆく。

「なにがおかしいんだ」

「だって、私は一人の人しか看病しないんです」

「え?」

「もう出来ませんの」

「そうか」と、島村はまた不意打ちを食わされて静かに言った。

「毎日君は蕎麦畑の下の墓にばかり参ってるそうだね」

「ええ」

「一生のうちに、外の病人を世話することも、外の人の墓に参ることも、もうないと思ってるのか?」

「ないわ」

「それに墓を離れて、よく東京へ行けるね?」

「あら、すみません。連れて行って下さい」

「君は恐ろしいやきもち焼きだって、駒子が言ってたよ。あの人は駒子のいいなずけじゃなかったの?」

「行男さんの? 嘘、嘘ですよ」

「駒子が憎いって、どういうわけだ」

「駒ちゃん?」と、そこにいる人を呼ぶかのように言って、葉子は島村をきらきら睨んだ。

「駒ちゃんをよくしてあげて下さい」

「僕はなんにもしてやれないんだよ」

葉子の目頭に涙が溢れて来ると、畳に落ちていた小さい蛾を掴んで泣きじゃくりながら、

「駒ちゃんは私が気ちがいになると言うんです」と、ふっと部屋を出て行ってしまった。

島村は寒気がした。

葉子の殺した蛾を捨てようとして窓をあけると、酔った駒子が客を追いつめるような中腰になって拳を打っているのが見えた。空は曇っていた。島村は内湯に行った。

隣りの女湯へ葉子が宿の子をつれて入って来た。

着物を脱がせたり、洗ってやったりするのが、いかにも親切なものいいで、初々しい母の甘い声を聞くように好もしかった。

そしてあの声で歌い出した。

…………

…………

裏へ出て見たれば

梨の樹が三本

杉の樹が三本

みんなで六本

下から烏が

巣をかける

上から雀が

巣をかける

森の中の螽檜

どういうて囀るや

お杉友達墓参り

墓参り一丁一丁一丁や

手鞠歌の幼い早口で生き生きとはずんだ調子は、ついさっきの葉子など夢かと島村に思わせた。

葉子が絶え間なく子供にしゃべり立てて上ってからも、その声が笛の音のようにまだそこらに残っていそうで、黒光りに古びた玄関の板敷きに片寄せてある、桐の三味線箱の秋の夜更らしい静まりにも、島村はなんとなく心惹かれて、持主の芸者の名を読んでいると、食器を洗う音の方から駒子が来た。

「なに見てんの?」

「この人泊りかい?」

「誰。ああ、これ? 馬鹿ねえ、あんた、そんなものいちいち持って歩けやしないじゃないの。幾日も置きっ放しにしとくことがあるのよ」と笑ったはずみに、苦しい息を吐きながら目をつぶると、褄を放して島村によろけかかった。

「ねえ、送ってちょうだい」

「帰ることないじゃないか」

「だめ、だめ、帰る。地の人の宴会で、みんな二次会へついて行ったのに、私だけ残ったのよ。ここにお座敷があったからいいようなものの、お友達が帰りにお湯へでも誘ってくれて、私が家にいなかったら、あんまりだわ」

したたか酔ってるのに、駒子は険しい坂をしゃんしゃん歩いた。

「あの子をあんた泣かしたのね」

「そう言えば、確かに少し気ちがいじみてるね」

「人のことをそんな風に見て、面白いの?」

「君が言ったんじゃないか、気ちがいになりそうだって、君に言われたのを思い出すと、くやしくて泣き出したらしかったよ」

「それならいいわ」

「ものの十分もたたぬうちに、お湯に入っていい声で歌ってるんだ」

「お湯のなかで歌を歌うのは、あの子の癖なのよ」

「君のことをよくしてあげて下さいって、真剣に頼むんだ」

「馬鹿ねえ。だけど、そんなこと、あなた私に吹聴なさらなくってもいいじゃないの」

「吹聴? 君はあの娘のことになると、どうしてだか知らないが妙に意地を張るんだね」

「あんたあの子が欲しいの?」

「それ、そういうことを言う」

「じょうだんじゃないのよ。あの子を見てると、行末私のつらい荷物になりそうな気がするの。なんとなくそうなの。あんただって仮りにあの子が好きだとして、あの子のことよく見てごらんなさい。きっとそうお思いになってよ」と、駒子は島村の肩に手をかけてしなだれて来たが、突然首を振ると、

「ちがう。あんたみたいな人の手にかかったら、あの子は気ちがいにならずにすむかもしれないわ。私の荷を持って行っちゃってくれない?」

「いい加減にしろよ」

「酔って管を巻いてると思ってらっしゃるわ? あの子があんたの傍で可愛がられてると思って、私はこの山のなかで身を持ち崩すの。しいんといい気持」

「おい」

「ほっといてちょうだい」と、小走りに逃げて雨戸にどんとぶっつかると、そこは駒子の家だった。

「もう帰らないと思ってるんだ」

「ううん、あくのよ」

枯れ切った音のする戸の裾を抱き上げるように引いて、駒子は囁いた。

「寄って行って」

「だって今頃」

「もう家の人は寝ちゃってますわ」

島村はさすがにしりごみした。

「それじゃ私が送って行きます」

「いいよもう」

「いけない。今度の私の部屋まだ見ないじゃないの」

勝手口へ入ると、目の前に家の人達の寝姿が乱れていた。ここらあたりの山袴のような木綿の、それも色褪せた固い蒲団を並べて、主人夫婦と十七、八の娘を頭に五、六人の子供が薄茶けた明りの下に、思い思いの方に顔を向けて眠っているのは、侘しいうちにも逞しい力が籠っていた。

島村は寝息の温みに押し返されるように、思わず表へ出ようとしたけれども、駒子がうしろの戸をがたぴししめて、足音の遠慮もなく板の間を踏んで行くので、島村も子供の枕もとを忍ぶように通り抜けると、怪しい快感で胸が顫えた。

「ここで待ってて。二階の明りをつけますから」

「いいよ」と、島村は真暗な梯子段を昇って上った。振り返ると素朴な寝顔の向うに駄菓子の店が見えた。

百姓家らしい古畳の二階に四間で、

「私一人だから広いことは広いのよ」と、駒子は言ったが、襖はみな明け放して、家の古道具などをあちらの部屋に積み重ね、煤けた障子のなかに駒子の寝床を一つ小さく敷き、壁に座敷着のかかっているのなどは、狐狸の棲家のようであった。

駒子は床の上にちょこんと坐ると、一枚しかない座蒲団を島村にすすめて、

「まあ、真赤」と、鏡を覗いた。

「こんなに酔ってたのかしら?」

そして箪笥の上の方を捜しながら、

「これ、日記」

「ずいぶんあるんだね」

その横から千代紙張りの小箱を出すと、いろんな煙草がいっぱいつまっていた。

「お客さんのくれるのを袂へ入れたり帯に挟んだりして帰るから、こんなに皺になってるけれど、汚くはないの。そのかわりたいていのものは揃ってるわ」と、島村の前に手を突いて箱のなかを掻き廻して見せた。

「あら、マッチがないわ。自分が煙草を止めたから、いらないのよ」

「いいよ。裁縫してたの?」

「ええ。紅葉のお客さんで、ちっとも捗らないの」と、駒子は振り向いて、箪笥の前の縫物を片寄せた。

駒子の東京暮しの名残であろう、柾目のみごとな箪笥や朱塗の贅沢な裁縫箱は、師匠の家の古い紙箱のような屋根裏にいた時と同じだけれども、この荒れた二階では無慚に見えた。

電燈から細い紐が枕の上へ下っていた。

「本を読んで寝る時に、これを引っぱって消すのよ」と、駒子はその紐を弄びながら、しかし家庭の女じみた風におとなしく坐って、なにか羞んでいた。