「ああ、踊子はまだ宴席に坐っていたのだ。坐って太鼓を打っているのだ」
太鼓がやむとたまらなかった。雨の音の底に私は沈み込んでしまった。
やがて、皆が追っかけっこをしているのか、踊り回っているのか、乱れた足音がしばらく続いた。そして、ぴたと静まり返ってしまった。私は眼を光らせた。この静けさが何であるかを闇を通して見ようとした。踊子の今夜が汚れるのであろうかと悩ましかった。
雨戸を閉じて床にはいっても胸が苦しかった。また湯にはいった。湯を荒々しくかき回した。雨が上がって、月が出た。雨に洗われた秋の夜が冴え冴えと明るんだ。はだしで湯殿を抜け出して行ったって、どうともできないのだと思った。二時を過ぎていた。
三
翌る朝の九時過ぎに、もう男が私の宿に訪ねて来た。起きたばかりの私は彼を誘って湯に行った。美しく晴れ渡った南伊豆の小春日和で、水かさの増した小川が湯殿の下に暖く日を受けていた。自分にも昨夜の悩ましさが夢のように感じられるのだったが、私は男に言ってみた。
「昨夜はだいぶ遅くまで賑やかでしたね」
「なあに。聞こえましたか」
「聞こえましたとも」
「この土地の人なんですよ。土地の人はばか騒ぎをするばかりで、どうもおもしろくありません」
彼があまりに何げないふうなので、私は黙ってしまった。
「向こうのお湯にあいつらが来ています。――ほれ、こちらを見つけたと見えて笑っていやがる」
彼に指ざされて、私は川向こうの共同湯の方を見た。湯気の中に七、八人の裸体がぼんやり浮かんでいた。
仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場のとっぱなに川岸へ飛びおりそうな格好で立ち、両手をいっぱいに伸して何か叫んでいる。手拭もないまっ裸だ。それが踊子だった。若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑った。子供なんだ。私たちを見つけた喜びでまっ裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先きで背いっぱいに伸び上がるほどに子供なんだ。私は朗らかな喜びでことこと笑い続けた。頭が拭われたように澄んで来た。微笑がいつまでもとまらなかった。
踊子の髪が豊かすぎるので、十七、八に見えていたのだ。その上娘盛りのように装わせてあるので、私はとんでもない思い違いをしていたのだ。
男と一緒に私の部屋に帰っていると、まもなく上の娘が宿の庭へ来て菊畑を見ていた。踊子が橋を半分ほど渡っていた。四十女が共同湯を出て二人の方を見た。踊子はきゅっと肩をつぼめながら、叱られるから帰ります、というふうに笑って見せて急ぎ足に引き返した。四十女が橋まで来て声をかけた。
「お遊びにいらっしゃいまし」
「お遊びにいらっしゃいまし」
上の娘も同じことを言って、女たちは帰って行った。男はとうとう夕方まで坐り込んでいた。
夜、紙類を卸して回る行商人と碁を打っていると、宿の庭に突然太鼓の音が聞こえた。私は立ちあがろうとした。
「流しが来ました」
「ううん、つまらない、あんなもの。さ、さ、あなたの手ですよ。私ここへ打ちました」と、碁盤を突つきながら紙屋は勝負に夢中だった。私はそわそわしているうちに芸人たちはもう帰り路らしく、男が庭から、
「今晩は」と声を掛けた。
私は廊下に出て手招きした。芸人たちは庭でちょっと囁き合ってから玄関へ回った。男の後から娘が三人順々に、
「今晩は」と廊下に手を突いて芸者のようにお辞儀をした。碁盤の上では急に私の負け色が見え出した。
「これじゃしかたがありません。投げですよ」
「そんなことがあるものですか。私の方が悪いでしょう。どっちにしても細かいです」
紙屋は芸人の方を見向きもせずに、碁盤の目を一つ一つ数えてから、ますます注意深く打って行った。女たちは太鼓や三味線を部屋の隅に片づけると、将棋盤の上で五目並べを始めた。そのうちに私は勝っていた碁を負けてしまったのだが、紙屋は、
「いかがですもう一石、もう一石願いましょう」と、しつっこくせがんだ。しかし私が意味もなく笑っているばかりなので紙屋はあきらめて立ち上がった。
娘たちが碁盤の近くへ出て来た。
「今夜はまだこれからどこかへ回るんですか」
「回るんですが」と男は娘たちの方を見た。
「どうしよう。今夜はもうよしにして遊ばせていただくか」
「嬉しいね。嬉しいね」
「叱られやしませんか」
「なあに、それに歩いたってどうせお客がないんです」
そして五目並べなぞをしながら、十二時過ぎまで遊んで行った。
踊子が帰った後は、とても眠れそうもなく頭が冴え冴えしているので、私は廊下に出て呼んでみた。
「紙屋さん、紙屋さん」
「よう……」と、六十近い爺さんが部屋から飛び出し、勇み立って言った。
「今晩は徹夜ですぞ。打ち明かすんですぞ」
私もまた非常に好戦的な気持だった。
四
その次の朝八時が湯が野出立の約束だった。私は共同湯の横で買った鳥打帽をかぶり、高等学校の制帽をカバンの奥に押し込んでしまって、街道沿いの木賃宿へ行った。二階の戸障子がすっかり明け放たれているので、なんの気なしに上がって行くと、芸人たちはまだ床の中にいるのだった。私はめんくらって廊下に突っ立っていた。
私の足もとの寝床で、踊子がまっ赤になりながら両の掌ではたと顔を抑えてしまった。彼女は中の娘と一つの床に寝ていた。昨夜の濃い化粧が残っていた。唇と眦の紅が少しにじんでいた。この情緒的な寝姿が私の胸を染めた。彼女は眩しそうにくるりと寝返りして、掌で顔を隠したまま蒲団を辷り出ると、廊下に坐り、
「昨晩はありがとうございました」と綺麗なお辞儀をして、立ったままの私をまごつかせた。
男は上の娘と同じ床に寝ていた。それを見るまで私は、二人が夫婦であることをちっとも知らなかったのだった。